スイスの銀行家も応援

 それは日本にいる人々だけの思いではない。遠く離れたスイスにも緒方の就任を心から喜ぶ人物がいる。

 地元の名門であるピクテ銀行(本社ジュネーブ)共同経営責任者、イワン・ピクテである。ピクテは「緒方さんには大きな責任が伴う。しかし、彼女なら素晴らしい仕事を成し遂げるだろう」と語る。緒方が日本の国際協力を進歩させるという予感が既にピクテにはある。それほど緒方への尊敬の念は強い。

 ピクテと緒方の出会いは1991年にさかのぼる。緒方は難民援助を手がける国連難民高等弁務官としてジュネーブに赴任し、現地で財界や地域活動をしていたピクテと知り合った。ともに食事会に出向いたり、別の機会にはピクテらゲストの前で、緒方がフランス語で難民援助についてスピーチしたりと、様々な場所で親交を深めた。

 当時、緒方は難民支援のためにアフリカ諸国や欧州の危険地帯を駆け巡っていた。しかし人前で苦労話をしたり、疲れを見せたりすることはなかった。一緒に夕食会に出た翌日の朝に、緒方が前日まで紛争地帯にいたと新聞で知って、ピクテが驚いたこともある。

 「ジュネーブの国際機関で働く外国人には地元との交流を持たない人も少なくない。その点、緒方さんは大変な仕事をしながらも、地元にも関心を向けてくれた」と今も感謝の気持ちを忘れていない。

 しかし、ピクテは緒方の行動力だけにエールを送るのではない。

 緒方の働きを長く見るうちに、その意志や責任感に、自身も組織の長であるピクテは強い感銘を受けるようになったのだ。特に、緒方が難民援助という仕事を進歩させ、その枠を広げている点をピクテは高く評価する。

「難民」の概念を変える

 それらは大きく3つある。まず、難民とは誰かという概念を広げたこと。また短期的な援助だけでなく、長期的な取り組みを強めたこと。さらに人々への援助と救済を「安全保障」という概念にまとめたことだ。

 緒方の決断で「難民」の概念を変えた典型例は、91年の湾岸戦争で発生したイラクのクルド人保護だろう。

 当時は170万人ものイラクのクルド人がイランやトルコの国境地帯へと逃れた。しかし、もともとクルド人が多いトルコは受け入れを拒否した。

 そこで緒方は戦争地帯であるイラクの中に欧米軍の監視による「安全地帯」をあえて作り、そこでクルド人を保護するという画期的な対策を講じた。この時、当時の米国大統領のジョージ・ブッシュに緒方は面会し、「難民保護のために米軍を早く撤退させることはしないでほしい」と頼んでいる。その策は功を奏し、イラク内の安全地帯に100万人もの難民を迎えた。

 それまで難民とは「自国の境を越えて行き場を求める人々」というのが国際条約の定義だった。援助対象もあくまで国境を越えた人々のみだった。しかし、非常事態の中で国内の難民を守る新しい保護の仕組みを作り上げた。それは、緒方自身が高等弁務官を退任してからも「イラクの中で本当に安全が確保できるのか。大変な決断だった」と振り返るほどの転換期となった。

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