『日経ビジネス』は経営者を中心に優れたリーダーの決断や哲学、生き方に迫る多数の記事を掲載してきた。その中から編集部おすすめの記事をセレクトして復刻する。第3回はリーマン・ショック後の危機に立ち向かったホンダの福井威夫氏を取り上げる。
(注)記事中の役職、略歴は掲載当時のものです。
2009月1月26日号より
挑むのはF1のスピード競争でなく、不況を乗り切る経営のスピード競争。創業者から受けた薫陶を胸に、原点を見つめ直して生き残り策を練る。環境トップの座を奪還するため、新型ハイブリッド車でトヨタに挑む。

苦渋のF1撤退
その瞬間、東京・青山のホンダ本社10階の役員会議室は、重苦しい空気に包まれた。
「F1(フォーミュラワン)から撤退しようと思っている」。昨年11月中旬、社長の福井威夫が、会長の青木哲、副社長の近藤広一、モータースポーツ担当常務の大島裕志を集めて、こう打ち明けた時のことだ。
その直前まで、福井の脳裏には、F1に情熱を注ぐ、たくさんの関係者の顔が浮かんでいた。エンジンや車体などの開発を担当する技術者は、日本の栃木研究所を中心に約500人。英国の運営会社の関係者を合わせると、1100人にも達する。撤退で、彼らが落胆する姿が頭をよぎった。
それでも福井の決意は揺るがなかった。それくらい、経営環境が激変していたからだ。
「まず真っ先にやらなければならないのは、私がどれだけ危機意識を持っているかを全従業員に伝えること。だから一番大事なもの、つまりF1を切った」

「世界最速の社長」が決断

「短期間で、よく思い切った」。福井の決断を傍らで聴いていた近藤はそう感じたと言う。本社にいる時は、毎日のように食事を共にし、何でも話し合う仲だ。福井がこの件で自問自答を繰り返したことを知っている。そして福井自身が誰よりもF1を愛し、撤退を悔しく思っていることも、理解していた。
そもそも福井がホンダに入社したのは、レースをやりたかったからだ。1970年代後半に、ホンダが参戦する2輪車の「ロードレース世界選手権(WGP、現MotoGP)」用に、伝説的なマシン「NS500」などを開発した。87年には2輪レースの統括会社ホンダ・レーシング(HRC)の社長に就任。そして、2000年にホンダがF1に再参戦を果たす陣頭指揮も執った。
「世界最速の社長」。福井にはそんなニックネームさえある。社長就任から1年後の2004年、メディア向けの技術発表会に、自らF1マシンを運転して登場し、サーキットを疾走した。
Powered by リゾーム?