ダイソンは、船の作り方を全く知らない。それでもフライは、彼の技術にかける情熱と創造力を見抜いていた。王立芸術大学院を卒業すると、ダイソンはフライの会社に就職して、開発から販売まで全権を委ねられた。完成した高速艇は、あまりのスピードに機関銃の攻撃をくぐり抜けられるため、船体を防弾仕様にする必要がなかった。このシートラックは、エジプト海軍が採用するなど、国境を越えたヒット商品となる。

ダイソンはここで、モノ作りで富を築く2つの鉄則を学ぶ。「真似されない世界で唯一の製品を作る」。もう1つは、「自分で作った製品は自分で売る」である。
妥協を許さぬ完全主義者
この成功で多額の報酬を手にしたダイソンは、次のアイデアを実現するために独立した。そして、新しい手押し車の開発に取り組む。古い農場を購入していたダイソンは、手押し車と格闘していた。重たい荷物を載せると、車輪が地面に食い込み、不安定になる。ならば、車輪の代わりに球体のボールを使えば、解決するのではないか。
こうして発明した「ボールバロー」は、またもや大ヒット商品となる。発売後数年で、手押し車市場でシェア5割にも達した。だが、問題が起きた。共同経営者と事業方針で対立し、会社を追われてしまう。しかも、特許は会社に帰属していたため、ボールバローに関するすべての権利を失った。フライとの仕事で見つけた2つ目の成功の法則「自分で作った製品は自分で売る」は、ボールバローでの挫折を機に、さらに先鋭化した。
「製品を作り、売る会社を、完全に掌握する」
そして、こう言い切る。
「最も重要なのは、新しいモノ、より良いモノを作り続けるという哲学。それを失うと、会計士やビジネスマンに会社を乗っ取られる」。この哲学が、有名なサイクロン掃除機の事業を成功させ、英誌によれば、15億ポンド(約2000億円)もの富をダイソンにもたらした。彼はいかなる場面でも、決してこの哲学を曲げなかった。
ダイソンが、ゴミと空気を遠心分離するサイクロン技術に注目したのは、1978年のことだった。当時、ボールバローの工場で汗を流していたが、サイクロン技術を使った集塵装置を自ら作製したことがきっかけだ。日頃から、掃除機の吸引力が徐々に低下していくことに苛立っていた。紙パックの目詰まりが原因だと見抜くと、このサイクロン技術を使って掃除機を作るアイデアが閃(ひらめ)いた。
やがて、英国で「ダイソン」ブランドの掃除機「DC01」が発売され、大ヒットすることになる。だが、実は、その8年前に、DC01の原型となる掃除機を量産した国がある。それが、日本だった。84年、日本の輸入商社エイペックスは、ダイソンからライセンス提供を受けて、世界初の本格的サイクロン掃除機「Gフォース」を発売した。
当時、エイペックスでダイソンと交渉した梶原建二は、「ジェームズは何かというと“It's my principle(それが私の原理原則だ)”と言って、一歩も譲らなかった」と振り返る。ダイソンは試作機こそ完成させていたが、ライセンス提供先を探すと、英国ばかりか欧米各国でも相手にされない。その交渉相手はコピー品を発売し、特許紛争にまで発展する。しかも、試作機は、実演すると頻繁に故障して動かなくなる。この逆境の中で、ダイソンは開発に私財を投じ続け、莫大な負債を抱えていた。「これなら、交渉は有利に進むはずだ」。梶原はそう読んだ。
Powered by リゾーム?