「かつて、何がこの国に富をもたらしたのか。それを忘れた紳士気取りの俗物根性を、叩き直すべきだ」
エンジニアを見下す風潮に我慢ならない。そんな姿勢では、英国産業の復興などあり得ないと信じている。だからだろう。彼が英国批判を繰り広げる時、その言葉は、まるで反体制の活動家のごとく激しさを増す。
だが、その時、ダイソンの表情から怒りや不満を読み取ることは難しい。品位のある穏やかな表情を崩さず、美しい英語は乱れない。激しい感情の起伏をめったに表に出さない姿は、英国紳士そのものだ。たとえ、スーツを好まず、常にカジュアルな服装で身を包んでいても。
その容姿は、彼自身が、高い教育を受けた中流層に囲まれて育ってきたことを、図らずも語っている。それでも、傍流と蔑まれた製造業にあえて取り組んできたのは、それが彼にとって、自らの価値を社会に認めさせる唯一の手段だったからだ。
「落ちこぼれ」の反骨
なぜ、僕はほかの子供たちと違うんだろうか――。
少年時代から、ダイソンはそのことに悩み、劣等感を抱いてきた。きっかけは9歳の時に訪れた、父の死。それを機に、父が教師をしていた寄宿制の中高一貫校から学費を減免されて、そこに預けられることになった。
英国の寄宿学校は、裕福な中流層の子息が通う。伝統を重んじ、英語の発音から立ち居振る舞いまで、社会規範を教え込まれる。学費を援助され、体も小さかったダイソンは、そうした環境で劣等感を強めていった。
しかも、学業においても「落ちこぼれ」だった。古典の教師だった父の影響から、古典学者になることを期待されたが、成績は振るわない。「他人と違うことで勝負しよう」。そう考えて管楽器の演奏や演劇の舞台美術に打ち込むが、保守的な教師らに反発し投げ出してしまう。
大学進学を選ばなかったのは当然の帰結だった。美術専門学校に通って絵画を学び、画家を目指そうとする。だが、専門学校の校長と将来の進路を話し合っていて、「家具デザイン」という言葉に興味を抱く。それが、名門の英王立芸術大学院に進学する転機となった。そこは、大学院しかない高等教育機関で、総合芸術のトップ校である。大学を卒業していないダイソンは、本来ならば入学できない。だが、当時は学士号を持たない学生を年に3人だけ入学させていた。その狭き門に、ダイソンは滑り込んだ。デザインの才能を発揮し始めた瞬間だった。
この超名門校に身を置いたことが、「落ちこぼれ人生」を大きく変えていく。卒業生には、映画監督のリドリー・スコットからポップアートの巨匠デイヴィッド・ホックニーまで、錚々たる人材が揃っていた。そうした華やかな環境の中で、ダイソンは、週1回教壇に立ち、モノ作りの原理原則を説く、ある講師の話に夢中になった。
トニー・ハント。英国で最も影響力のある構造エンジニアの1人だった。彼は、今でもダイソンに教えたことを鮮明に覚えている。
「当時、構造エンジニアリングというと、まず計算から教え込む。だけど私は、何をしたいか、どの素材を使いたいか、実現したいコンセプトを優先しろと教えた」
伝統に縛られずに、自由な発想を大切にする。この教えが、ダイソンの心を激しく揺さぶった。
ハントが語るエンジニアリングの世界は、物理法則が支配している。人間の主観から解放され、美しい構造で優れた機能を作り出せば、評価される。主観に評価が左右される絵画などの芸術とは一線を画す。
「エンジニアリングこそ、自分の進むべき道」。そう確信した時、もう1つの幸運が訪れる。故ジェレミー・フライとの出会いだ。フライは、石油・ガス業界向けに産業用部品を開発するロトルク社の社長兼エンジニアで、人の勧めで彼の元を訪ねてきたダイソンに、ある製品の開発を託す。それが、軍用に使われた上陸用高速艇「シートラック」だ。ダイソンにとって、初の発明品である。
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