感覚に戻せない言葉が、対立を招く

概念としてのリンゴ、概念としてのおじいさんは、みんなが想起するリンゴであり、おじいさんであり、同じである。

養老:本当に同じかどうかはわかったものじゃないですが、同じということにしておこうと。そうしないと言葉が通じませんから。

 リンゴやおじいさんみたいに、具体に戻せるものはいいんです。「このリンゴは、誰が食べるのか」「そのおじいさんは、どんなおじいさんなのか」といった問題しか起こらない。こんなふうに、感覚に戻せる言葉はいいんですけど、これが「公平」とか「正義」とか、感覚に戻せない言葉になってくると、社会の中で大げんかとなるわけです。こっちの「公平」が正しいとか、あっちの「正義」が正しいとか。

「概念としての正義」「同じ正義」の中身が、実は同じでないから、みなが互いの考える正義のために戦うとか、そういうことですね。

 大人は「概念のリンゴ」の世界を生きていて、子どもは「特定のリンゴ」の世界に生きている。その違いはどのようなものなのですか? 

養老:小さい子というのは、動物と同じですべてのものが「違って」見えるんです。猫には「同じ」という概念はありません。目の前の「その魚」が食べられるかが判断できればいいわけですから。

猫は、常に目の前の特定のものに反応して生きている、ということですか。「同じ」という概念を持つには、確かに抽象的な思考や言葉の発達が不可欠ですね。

養老:この「同じ」は、自分にも向かうのですね。それが自己意識です。「theの世界」、つまり一つ一つを別のものとして捉える感覚の世界からは、自己意識は生まれないんですよ。

なるほど、先生がおっしゃる「子どもは感覚の世界で生きている」というのは、単に五感をより使って生きている、ということではないということがわかりました。まさに『バカの壁』。理解がまったく及んでいませんでした。

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。『バカの壁』(新潮新書/2003年)

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