「I am a boy」に、「I」は不要である

養老:英語で「I am a boy」って言うときに「I」を必ず付けますけど、その「I」も本当は要らないですよね。「am」とくれば、主語は「I」に決まっているのですから。じゃあ、ラテン語で入っていなかった「私」が、いつから入ってきたかというと、多分中世、キリスト教からです。

何か理由があったのですか?

養老:一神教の世界には、「最後の審判」があります。この世の終わりに、全員が神様の前に出て裁きを受ける。そうすると、そのときまで存在し、過去から一貫している自分がないといけない。

裁きを受けるまで、一貫した自己がないといけない……。以前(なぜ「本人」がいても「本人確認」するのか?)にうかがった、名前が必要な理由と似ていますね。「貸したお金を返してください」といったときに、「借りたのは私ではありません」と反論されると困るから、借りた私に「黒坂真由子」という名前が付けられている。

養老:最後の審判であれば、「審判を受ける自分は誰か」ということになる。生後50日の私と、84歳の今の私では、まったく違うとなれば、どっちが審判の場に出るのか、ということになります。

仏教では、生後50日の養老先生と、84歳の養老先生はまったく違う存在だと考えるのでしたね(前回参照)。

養老:しかし、最後の審判がある人々にとっては、生まれてから死ぬまで一貫した私というものがないと困るんですよ。そういうものが要請されてしまったんですね。

その「生まれてから死ぬまで一貫した私」という考えが、明治以降、日本に輸入されて、今「個性を伸ばせ」という教育になっているということですね。本来「自己」という土壌がないのに、急に「個性を伸ばしなさい」という教育になってしまった。

養老:そうです。だから先生も困っているのではないですか。

前回ご紹介した研究の通り、日本の子どもは、パズルもペンの色も母親の好みで選びたい、人生の選択もなるべく多くを周りに委ねたい。そういった周囲の意向を受け入れて生きていくのが心地いい日本の子どもにとって、「個性を伸ばせ」「自己実現せよ」という親や社会の期待が、プレッシャーになっている可能性がある。

 このような「自己の問題」は、自殺にも関係しているのでしょうか?

養老:自己の問題の裏にあるのが、「命は自分のもの」という考え方です。だから、若い人が勝手に死ぬ。

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