解剖学者の養老孟司先生の「子どもが自殺するような社会でいいのか」という問題提起からスタートした本連載。なぜ今、子どもたちは死にたくなってしまうのか。社会をどう変えていけばいいのか。課題を一つずつ、ひもといていきます。
前回(日本の子どもに「個性と自己実現」を求めるべきか?)は、「自己の問題」を取り上げました。
日本の伝統的な考え方には、自己という概念がない。そのことを反映するかのように、日本の子どもたちはアメリカの子どもたちと違って、自分の人生を自分で選択したり、自分で決定したりすることを好まない。しかし、西洋の考え方が導入された現代社会を生きる親たちは、子どもたちに「個性を伸ばせ」「自己実現せよ」と求める――。
このような自己の問題は、日本人が明治維新以来抱えているストレスであると先生はおっしゃいます。子どもの自殺が今、増えていることとも関係しているのかもしれません。
(取材・構成/黒坂真由子)
前回のお話では、そもそも「生まれてから死ぬまで一貫して変わらない私がいる」という感覚が、日本人にはそぐわない、ということでした。今の日本の大人にとっては、当たり前の感覚だと思いますが、これは明治以降、西洋からきた考え方であり、日本の伝統的な考え方とは違う、と。
養老孟司氏(以下、養老):もともとヨーロッパでも、多神教の世界(*)ではこういう「私」はなかったと思うんです。
例えばデカルトの「我思う」ってありますね。あれはフランス語で「Je pense」でしょう。「donc je suis」は、「私は存在する」(*)。「Je」が、私ですね。
これをラテン語(*)で書くと、「我思う」はいきなり「Cogito(コギト)」となるんです。Cogitoは、一人称単数現在の動詞です。「私は考える」と言いたいときに、ラテン語では主語は要らないんです。
英語でいえば「think」のみということですね。主語がない。
養老:「主語がない」というと、何か不足しているような気がしますが、日本語と同じで必要がなかったんですね。
確かに日本語も、主語をあまり使いませんね。普段の会話において、「私は……」と話すことはあまりありません。

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