「無限」という名の新しい絶望
不死によってもたらされる「無限」とは、単なる割り増しの時間ではなく、際限なく続く時間だ。無限の時間という巨大な枠組みの中では、たちまち私たちに残されるのは退屈極まりないものだけということになり、自分の意欲が著しく減退する憂き目に遭いかねない。
もちろん、何度も味わえる楽しみもある。美味(おい)しい食事をしたり、友人と会話したり、好きなスポーツをしたり、お気に入りの音楽を聴いたりといった楽しみだ。こうしたことは、少なくとも2回目、3回目、あるいは100回目でも素晴らしさは薄れぬように思える。だが、毎日キャビアを食べている人は、いずれげんなりするだろうし、いつの日か、たとえ100万年先だとしても、友人たちのジョークにも全部飽きるだろう。あらゆる贅沢(ぜいたく)も、長々と楽しんだ後は、ありきたりのつまらぬものになる。どんな活動を追求しても、終わることなく繰り返すなら、最後にはシーシュポスのような気持ちになるだろう。シーシュポスは、何度やっても必ず転がり落ちる重い岩を山頂に向かって永久に押し上げ続けるという罰を神々に与えられたギリシア神話の王だ。
もう1つ、深刻な問題は次のようなものだ。物事の価値は、その稀少(きしょう)性と関連している。自分が死を免れぬことを自覚している人は、人生に限りがあることを知っているので、時間を大切にし、それを賢く使おうとする。朝、ベッドから起き出すのも、学業を終えて社会に出るのも、安定した老後のためにお金を稼ぐのも、その制約に駆り立てられてのことだ。限りある時間という制約に、私たちのあらゆる決定は左右されている。
無限の時間に関するこの推測が少々抽象的に聞こえるのなら、突然、自分が余命いくばくもないと知った人の経験に目を向けるとよい。末期患者を対象としている精神科医のアーヴィン・D・ヤーロムは、癌(がん)のような重病と診断された人さえ「生きているという実感の高まり……人生における本当に大切な事柄の鮮明な認識……そして、愛する人たちとのより深い意思疎通」を経験することを指摘している。
つまり、生は今の長さであっても、私たちはすでにその真価を理解できておらず、これ以上時間が増えれば、あるいは無限に時間が増えれば、この状態を悪化させるだけであることが、証拠から窺(うかが)える。
無限を前にしては、時間はその価値を失う。そして、時間が無価値になれば、選択というものが無意味になり、時間の使い方を合理的に決めることは不可能になる。意味のある生と生産的な社会には、それらの意味を明確にする限界が必要だ。私たちには生の有限性が不可欠なのだ。
ヴィトゲンシュタインが「生に終わりはない」といった理由
真に終わりなき生は恐ろしい災(わざわ)いである可能性を認識すれば、永遠に生きたいという望みは薄れるかもしれない。が、だからといって、死んでもかまわないと私たちが納得する可能性は低い。
しかし、実際に死んでいる状態を恐れるのは無意味かもしれない。これを私たちに明確に言い表すために登場したのは、ギリシアの哲学者だった。エピクロスだ。紀元前300年頃に彼はこう書き記した。
「死は我々にとって何の意味も持たない。なぜなら、あらゆる善悪は感覚の中に存在し、死はあらゆる感覚の終わりだからだ」
「我々が存在しているときには死は存在しないし、死がやって来たときには我々は存在しない。したがって、生きている者にも死んでいる者にも死は関係ない。というのも、死は生者と共には存在しないし、死者は存在しないからだ」
エピクロスの主張は、まさに自然科学が説くことでもある。私たちは“本質的に”、生き物、つまり、生きている物なのだ。そこから議論が紛糾(ふんきゅう)しそうな結論が導き出される。あなたも私も、文字どおり“死んでいる状態”になることはできない。生きている物は死んでいる物になりえない。誰かについて「死んでいる」と言うのは、その人が存在しなくなったということの、簡便な言い換えにすぎない。
20世紀哲学界の巨人ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、意識があり、物事を経験している生き物としての私たちにとってこれが意味するところを、次のように要約している。「死は人生における出来事ではない。私たちは生きて死を経験することはない」。ヴィトゲンシュタインはここから、その意味で「生に終わりはない」と結論した。つまり、私たちは生に終わりがあることを、けっして自覚できない。知りうるのは、生だけなのだ。
自分を海の波にたとえることができるかもしれない。岸に打ち寄せるとき、その短い一生は終わるが、その後「死んでいる波」あるいは「元波」といった何らかの新たな状態に入るわけではない。波を構成していた各部分が消散して、再び海に吸収される。私たちも同様だ。人間という生き物の、自己制御を行なう有機化された複雑な仕組みが機能停止すると、その人は終焉(しゅうえん)を迎える。死という新たな状態に入ったわけではない。その人は終わり、その構成要素はやがて人間の形を失って、再び全体に組み込まれる。
死とは終わりであり、だからこそ、それを正確に理解したときには、死を恐れるべきではない。これまでに積み上げた意識経験が、私たちの“生のすべて”だ。誕生と同様に、死はこうした経験の境界を定義する用語でしかない。このことを、不死の問題の理解と組み合わせると、直感で信じているほど、永遠に生きるというのは良いものでもなく、死は悪いものでもないと結論できる。
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