「死にたくない」「長生きしたい」……人類はこの感情を原動力に、都市をつくり、科学を発展させ、文化を築き上げてきました。そして、「死」がもたらす人生の有限性が、一人ひとりの人生の充実に大きな役割を果たしているといいます。それはいったい、どういうことなのでしょうか。哲学博士で、ケンブリッジ大学「知の未来」研究所(Leverhulme Centre for the Future of Intelligence)エグゼクティブディレクター兼シニアリサーチフェローのスティーヴン・ケイヴ氏による著書『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』から一部を抜粋し、ビジネスパーソンの教養となり、今をより豊かに生きるための考え方を紹介します。4回目は、「必ず死ぬという現実を踏まえ、私たちはどう生きるべきなのか」について。
守られない「不死への約束」
人類による「不死」の探求は、太古以来の歴史と、無数の信奉者と、人類の文明を形作る計り知れぬ影響力を持ってきた。とはいえ、そのどれもが頂(いただき)には遠く及ばない。私たちは、永遠の生にはけっして手が届かないのだ。
おかげで、少しばかり困ったことになった。私たちはみな、未来永劫(えいごう)生き続けたいという本能、つまり不死への意志を持っている。そして、それは「死のパラドックス」(連載第1回参照)と表裏一体である。
それがすべて幻想なら、いったいどういうことになるのだろう?
個人の観点ではなく、文明の視点から考察すると、状況はなお悪い。始皇帝の物語(連載第3回参照)でも見たように、文明そのものは、死の克服を目指す探求によって推進されてきた。それどころか、多くの文明にとって創始時の存在意義が不死の約束だった。
また、科学と進歩のイデオロギーが現れたのは寿命を無期限に延ばそうとしたからであり、宗教が繁栄するのは死後の生を保証するからであり、文化の所産のほとんどは象徴の領域で自己複製するための私たちの試みであり、子供をもうけるのは自らを未来に存続させたいという生物学的な衝動の表れである。そうした試みを抜きにして、いったいどのような種類の社会が成立しうるだろうか? どれだけ努力しても無に帰するとわかっていても、進歩や正義や文化はありうるだろうか?
「不死」の実現で起こる様々な「大問題」
ただし、この問題に対し、私たちは絶望する必要はなく、生の有限性に向き合いつつも、真っ当(まっとう)で満足のいく人生を送れるはずだと、私は信じている。じつのところ、それは意外なほど容易でさえあるかもしれない。不死には実は、望ましくない点もあるのだ。
不老不死の人が住むという山を登るための奮闘は、成長と革新に満ちたものだったと同時に、流血や残虐行為や不正だらけのものでもあった。始皇帝に限らず、彼らは不老不死を追求するあまり、厖大(ぼうだい)な数の人の人生を破綻させた。名声や栄光を狙う数々の試みが慈悲深さをはなはだしく欠いていることは記憶にとどめる価値がある。
同様に、生物学的な不死のシナリオもまた、人種差別やナショナリズムや外国人嫌いに変質することが頻繁にある。「他者」の排除あるいは殺害は、自らの純潔性を維持し、自分たちの人種こそが死を超越することを示す1つの方法になるからだ。そういうわけでアーネスト・ベッカーは、「死の必然性を否定し、英雄的な自己像を築きたいという衝動が、人間の悪事の根本原因である」と主張したのだ。だから、不死の達成という目的への手段として多くの文明が興(おこ)る一方で、不死のシナリオの結果としてやはり多くの文明が滅亡の憂き目に遭(あ)ってきた。
また、異なる不死のシナリオを持つ文化間の戦争は、アメリカの哲学者サム・キーンの言葉を借りれば、永遠の生にかかわる「聖戦」となる。あなたが自分の命を、プロレタリア革命を進めるために犠牲にしたのなら、資本主義が勝利すれば、後世でのあなたの役割は消滅する。人生をアッラーに捧(ささ)げたいと願うなら、世俗主義が発展すると、楽園に居場所を見出せなくなる恐れがある。こうして、私たちは自らに固有の神話の真実性を守るために闘い、たいてい勝者に劣らぬほどの数の敗者も出るのだ。
さらに、不死のシナリオの望ましからぬ影響は“文明間”の争いだけに限られるわけではない。それぞれの社会の“中”にもやはり、はっきり現れている。不死のシナリオは多くの倫理体系で重要な役割を果たし、この世で人が見せる善行や悪行への褒美や懲罰として永続的なアメとムチを提供する。だが、こうした倫理体系は、非道極まりない不正をも容認しうる厳格な保守主義と表裏一体なのだ。
中世ヨーロッパの支配者がキリスト教に大きな利用価値を見出した理由も、そこにあることは間違いない。キリスト教は搾取される臣民に、日々の生活の忌まわしさから目を逸(そ)らし、代わりに未来の楽園を夢見るように教えたからだ。これこそニーチェが「奴隷の道徳」と呼んだものだ。なぜならそれは、踏みにじられた人々に悲惨な運命を受け容れさせ、来るべき世界での復讐(ふくしゅう)と満足に空想を巡らせるように仕向けるからだ。
奴隷解放、両性間や人種間の平等、社会福祉などを目指す、ここ数世紀の素晴らしい社会改革運動が起こったのは、西洋社会において来世への執着がようやく薄れ始めたときだった。永遠に続く道義的に正しい喜びが待っているのであれば、現世で正義や幸福を追い求める必要はないのだから。
不死を信じる人は、頑(かたく)なに将来の至福を見据え、“今”存在することの価値を理解しそこなっている。
最後になるが、不死のシナリオの大多数が根深い利己心を育てることも注目に値する。そうしたシナリオはあなたに、自分の個人としての人格が無限に存続することに執着するよう教える。すると、あらゆる行動が、あなた個人が生き残る可能性を高めるか低めるか、あるいは期待される永遠の生をより楽しいものにするか否かで評価されるというわけだ。
これらは不死のシナリオが現時点で持つ欠点だが、問題点の一覧にはさらにつけ加えるべき事柄がある。すなわち、私たちが本当に個人の不死を達成したら起こりかねぬことだ。
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