米シリコンバレーの地でトレジャーデータを起業して10年。2018年に英Arm(アーム)に買収されましたが再び独立。現在、私はトレジャーデータの取締役会長を務めています。
「どうしてシリコンバレーで創業したのか?」。しばしば、こう尋ねられます。基本的には米国を拠点として活動しているため、日本のメディアでお話しする機会はあまり多くありませんでした。この連載では、あえて日本国外からの視点をもって、日本の読者の皆さまへ、何かしらの気付きになるようなことをつづっていければと思っています。
先の問いにお答えする前に、簡単に「私の履歴書」をご紹介させてください。
作家志望なのにオープンソースソフトウエアの世界へ
私のキャリアは、大学在学中、オープンソースのOS(基本ソフト)である「Linux」の商用パッケージを展開していた米Red Hat(レッドハット)の日本拠点でアルバイトをしたことから始まります。いきなりオープンソースソフトウエアの世界に飛び込んだ私はもともと、文学部。しかも、作家志望でした。
縁あって働き始めたレッドハットではいきなり企業のエンジニアを対象としたトレーニングの講師をすることになりました。それだけでもハードルが高いのに、教え始めてから3カ月後には全て英語でやれと言われる羽目に。六本木ヒルズやアークヒルズから来る外資系銀行の外国人エンジニアに、冷や汗をかきながら英語でサーバーやLinuxカーネルチューニングのトレーニングをしていたときのことは今でも夢に出てきます。
当時のレッドハットは、米国でこそLinuxのディストリビューターとして存在感を示していましたが、日本では後発組。そのほかのプレーヤーとしてはTurbolinux(ターボリナックス)やMIRACLE LINUX(ミラクルリナックス)がありました。
大学を卒業して正式に社員になる頃、レッドハットは、今では世界標準になっている「Red Hat Enterprise Linux」をリリースしました。世の中は「ドットコム・バブル」と呼ばれるIT業界で起きたバブルが崩壊し、その傷痕がまだ生々しく残る頃でもありました。レッドハットでの勤務を通じて、ドットコム・バブル崩壊も乗り越えて企業が成長していく様子を内部から見られたのは、今思えば非常に有意義な経験でした。
もう一つ、私にとって貴重な財産となったものがあります。トレーニング事業から始まりプロダクトの日本市場向けローカライズ、セールスエンジニア、さらにOSメーカーとして最も大切なコンピューターメーカーとのOEM交渉や共同開発体制の立ち上げなどを経験する過程で、日本のオープンソースコミュニティーや通信・コンピューターメーカーの研究所にいるエンジニアたちとの交流や知己ができたことです。これが、ゆくゆく自身の創業につながるとは、当時はまったく考えていませんでした。
密度の高い時間をレッドハットで過ごしたのち、私は三井物産のベンチャー投資ファンドに転職しました。東京をベースに日本やアジア各国の企業へ投資をしながらベンチャーファイナンスの知識を学び、2009年にシリコンバレーに赴任します。
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