ジャパネットたかたの創業者、髙田明氏の連載がスタート。これまでのビジネスで考えてきたこと、今思うことなどを自在に語る。今回のテーマは「売る」ために何をしてきたのか。髙田氏によると、店舗販売も通販事業もすべてつながっているという。

「どうやってあのテレビショッピングの話し方や伝え方を身に付けたのですか」と、ときどき聞かれます。何も特別なトレーニングや戦略があってのことではありません。通信販売を始める前、店でビジネスを行っていたときから私のやり方は変わっていません。
それは「今を生きる」。そのときどき、目の前のことに全力で取り組んできたことが今につながっています。それを知ってもらうため、今回はビジネスを立ち上げる前や創業期に何をしてきたかを中心にお伝えします。
私は大好きな英語を活かせる営業の通訳として勤めてきた京都の機械メーカーを3年ほどで辞めて、25歳のとき、父が長崎県平戸市で経営していたカメラ店「カメラのたかた」で働き始めました。
日中は店でカメラの販売やフィルムの現像やプリントなどのDPE業務を担当。夜はホテルの宴会場を回り、新たにできた平戸と本土を結ぶ橋をわたってやってくる観光客の記念写真を撮影し、販売する仕事をしていました。カメラ店と一口に言っても、カメラを販売するだけでなく、当時はいろいろな業務があったのです。デジタルカメラや携帯電話のカメラ機能が進化した今となっては考えにくいかもしれませんが、当時はフィルム式だったためこの時代には撮影と現像、プリントを組み合わせた需要が強かった。平戸はそれほど人口が多くないし、その分、いろいろな仕事を考えて取り組む必要がありました。
また、例えばカメラを販売するために、問屋と一緒に全カメラメーカーが協賛したカメラフェアも文化会館で開催しました。このときは、ホテル関係者だけではなく、仕事で知り合いになった方にも招待状を送り、1日に300万円ほど売り上げることができました。一般のお客さんだけではなく、取引先との一期一会の縁を大切にし、つながっていくことで、大きな成果を得ることができる経験をしました。
フェリーで1年間、通い続ける
27歳で結婚し、ちょうどその頃、知り合いの衣料品店が松浦に店を出すことになりました。父に「1階の入り口に3坪のスペースがあるから、ここに店を出さないか」と声をかけてくれ、その店には私と妻が平戸から通うことになりました。平戸はまだ本土との間に橋が架かっていませんでしたから、それから1年間、私と妻は毎日フェリーで本土にわたり、そこからクルマで30分ほどかけて松浦の店に通いました。その間も、夜は平戸に戻って宴会場の撮影をする日々を送りました。
松浦支店の最初の1カ月の売上高は55万円ほどでした。1日2万円もいかない状況であり、とても厳しかった。「これではいけない」と思いました。基本的には目標金額を掲げない私ですが、この時ばかりは1年後に月300万円を売る店にすることを目指しました。しかし、平戸のように観光資源もなく、人の出入りも少ないこの土地で、店で待っているだけでは売り上げが上がりません。
そこで、とにかく自ら動きました。
建設業は自治体に進行状況を報告するために写真をたくさん撮りますから、ここに飛び込み営業をしました。それでも売り上げが足りなかったら、時計店など他業種の方に声をかけ、元寇と深いかかわりを持つことで有名な鷹島まで泊まり込みで出張販売に出向きました。そこではガリ版刷りのチラシを500枚ほど自前でつくり、配って回ったりしました。カメラ以外に興味がある方もチラシを見て集まってこられるので、反響は大きく、カメラだけでも結果的に30万円、40万円と売れました。また、松浦への出店を提案してくれた衣料品店の店主から、在庫効率、坪効率、労働効率などを学び、いかにして今の環境下で売り上げを伸ばしていくかを一生懸命考えていました。
このようなことを積み重ねて月の売り上げが100万円、150万円と伸びていき、1年後には何とか月商300万円となり目標を達成できました。独立前に父の店から通える場所の店を任された経験はその後のいろいろな場面に役立っていると思います。松浦支店では目標を達成でき、従業員の1人を店長に任せられるようになった1年後、私は再び平戸の父の店に戻りました。
父のカメラ店には兄夫婦と弟夫婦、妹も働いていましたから、私が30歳のとき、「兄弟の中で1人は平戸の10倍の人口がいる佐世保に出てみようか」となり、次男である私がその役割を担うことになりました。この佐世保への進出がのちの通販事業に大きくかかわってくるようになります。

Powered by リゾーム?