職場で上司が部下を助言・育成する「メンタリング」。指導者(メンター)が部下(メンティー)に対し、既存の不公平な社内文化への適応を求めるだけに終始してしまうと、メンタリングの価値は無くなってしまう。一方で、適切なメンタリングをすれば、現状に疑問を持ち、打開しようとする意欲的な社員を育てることができるはずだ。

メンタリング制度は、従業員のスキル構築と仕事における成長の支援において重要であり、人気の手段だ。上級管理職にとっては、有望な社員を育成する方法を与えてくれるツールであり、大切な場面で社員の立場を守ったり、業務上の課題解決に手を貸したりしてくれる。
しかし、メンタリングが的外れに終わってしまうこともある。管理職(メンター)がメンタリングの際、「現状を変えよう」という部下(メンティー)の意欲を奮い立たせるのではなく、逆に排他的で有害な(従来型の)「理想の社員像」の規範を存続させてしまうことがあるからだ。
我々はメンターとメンティーの関係に関する研究をしているが、その中でメンターがその役割を活用して、メンティーの個性をたたえるといった「アイデンティティー・ワーク 」に携わる場面を見ることはほとんどない(「アイデンティティー・ワーク」については後述する) 。
むしろメンターはメンティーに対し、どうすれば組織における既存の有害な振る舞いやジェンダー文化に「適合」し、同化できるかについて助言することが多い。このような使い方では、メンタリングは啓発やインクルージョン(多様性の受け入れ)のためのツールではなく、抑圧の道具になってしまう。
的外れなメンタリングの例
一例を紹介しよう。金融サービス企業に勤めるラティカは、会社の正式なメンター制度で、メンターであるアグネスとペアになった。アグネスは努力して出世し、厳しくも公平なリーダーだという評判を得ていた。
初期の面談で、アグネスは今まで自分が(仕事のために)何を犠牲にしてきたかを強調した。「中途半端はだめ」とラティカに言い、「夜遅くまで打ち合わせをして、商談をまとめることを求められれば、そうしなさい。仕事を終わらせるために、昼食を抜かなければならないのなら、そうすればいい。仕事が人生で一番大切なものだということを示さなければならない」と助言した。さらにアグネスは、女性である以上、自分の能力を証明するために男性より多くのことをしなければならない、とラティカに告げた。
ラティカは、アグネスの率直さをありがたく感じた一方、失望してしまった。彼女は、アグネスのような優秀な人でさえ、過労と差別がはびこる社内文化を打開できないのだろうかと疑問に思った。そして自分がアグネスと同じ道を歩めば、健康や幸福、ワークライフバランスにどのような影響をもたらすのだろうかと考えた。そしてメンターの役割とは、ラティカのような社員が仕事のために何かを諦めることを受け入れる手助けをするだけなのだろうか、とも考えた。
「従来のやり方」の押し付けが部下を失望させる
ラティカの失望はまっとうなものだ。意欲的な若者、特に女性や有色人種の若者は、個人的な成功を収めただけでなく、不健全・不公平な文化を改善してきた先駆者たちを、自身のロールモデルにしたいと思っている。いわゆる「理想的な社員」の定義に自分を押し込めたり、自分のアイデンティティーの表現を制限したりすることなく、成功する方法を探しているのだ。
ラティカの場合、「アグネスはなぜ、組織が寄せる理不尽な期待に疑問を持たず、自分の価値を証明するためにそれに従うのだろうか?」と疑問を持った。たしかに下積み時代はそうせざるを得なかったのかもしれないが、今や彼女は評判の高いリーダーだ。ではなぜ、彼女はまだ組織のルールに従うのだろうか?
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