半導体を受託生産するファウンドリーの世界最大手、台湾積体電路製造(TSMC)と東京大学は半導体の共同研究を開始した。そのプロジェクトには多くの有力な日本企業が集い、最先端の開発が進む。半導体産業で日本の優位性を高める起爆剤となる可能性がある。
 世界政治を左右する戦略物資となった半導体を巡って各国が激しく争う最前線を、30年以上にわたって国際報道に携わってきた太田泰彦氏(日本経済新聞編集委員)の著書、『2030 半導体の地政学 戦略物資を支配するのは誰か』(日本経済新聞出版)から一部を抜粋、再編集して解説する(敬称略、肩書は執筆当時のもの)。

東大とTSMCが仕掛けた起爆剤

 当時、慶応義塾大学の教授だった黒田忠広の電話が鳴ったのは、2019年3月だった。

 「今、風が吹いている」

 電話の主はそう言った。東京大学の知人だった。東大とTSMCが組み、次世代の半導体技術を研究する。半世紀にわたって発達してきた技術の枠を超え、産業界を巻き込んで異次元のチップを生み出す。そんな機運が高まり、東大の学内に熱い風が吹いている。

 慶大から東大に移籍して、プロジェクトを率いる役を引き受けてくれないか――。

 東芝で約20年間、半導体の開発に携わり、学会で100本以上の論文を発表していた黒田への誘いだった。国境を越えた産学連携の大構想は、豊富な経験があり快活な指導者である黒田の推進力を必要としていた。

 突然の依頼に驚きはしたが、会話の中に確かな「風」を感じた。強靱(きょうじん)な半導体産業を築くための設計図は、既に黒田の頭の中にあった。

 「分かりました。やりましょう」

 その後に日本の政官界、産業界を覚醒させることになる作戦が、この時、起動した。

 東大とTSMCの連携には伏線がある。東大総長の五神真が2018年末に台北を訪れた際、旧知のTSMC創業者のモリス・チャンを訪ねたのがきっかけだった。チャンは「自分はもう引退したから」と、現会長のマーク・リュウを五神に紹介した。

 その会談に同席したのが、米スタンフォード大学教授でTSMCの研究開発部門のトップを兼務するフィリップ・ウォン(黃漢森)である。半導体の未来について語り合ううちに、「東大とTSMCで一緒に何か面白いことをやろう」という話になった。

 五神の動きは速かった。日本に帰国すると同時に、日台連携の枠組みを練り始める。業界の裏方に徹していたTSMCが、公式に日本の産学界とパイプでつながるのは、初めてのことだ。

 慶応大にいた黒田に白羽の矢が立ったのが翌2019年の春。黒田は8月に正式に東大に教授として移った。東大でおそらく過去最速のスピード人事だった。

 東大にシステムデザイン研究センター(d.lab=ディーラボ)が発足したのは2019年10月。さらに2020年8月には先端システム技術研究組合(RaaS=ラース)を立ち上げた。前者のディーラボは、会員制で広く企業を募り、知見を共有しながらオープン方式で課題を話し合う、いわば開発エンジニアの広場である。

 半導体を使って何をしたいか。どんなチップを作るか。そのためにどんな技術がいるか――。学内の電子工学系の各研究室も協力し、会員企業が自由に議論する。そのアイデアを形にしたプロトタイプをTSMCが製造する。

慶応義塾大学教授だった黒田忠広は東京大学に招かれ、システムデザイン研究センター(d.lab)長、先端システム技術研究組合(RaaS)の理事長に就任した(写真:高山和良)
慶応義塾大学教授だった黒田忠広は東京大学に招かれ、システムデザイン研究センター(d.lab)長、先端システム技術研究組合(RaaS)の理事長に就任した(写真:高山和良)

 TSMCと組んだ東大の求心力は強い。半導体に直接関係する業界だけでなく、化学、精密機械、通信、ベンチャー企業、商社などが関心を寄せ、当初から40社以上の企業が集まった。

 後者のラースでは、個別の企業と東大・TSMCが具体的な技術の開発を、クローズドで進める。核となる企業として、日立製作所、パナソニック、凸版印刷、ミライズ テクノロジーズの4社がまず手を挙げた。各社のプロジェクトの中身は企業秘密であり、外部からはもちろん、他の会員企業も見ることはできない。具体的な目標を定めた研究開発であるため、億円の単位の開発費をラースに投じる企業もある。

 ラースのメンバーに外国企業はいない。「いない」というより、「入れない」と言った方が正確かもしれない。日本の地政学的リスクにかかわる国家戦略そのものだからだ。

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