日本政府がTSMCの誘致にこだわった理由は何か。世界政治を左右する戦略物資となった半導体を巡って各国が激しく争う最前線を、30年以上にわたって国際報道に携わってきた太田泰彦氏(日本経済新聞編集委員)の著書、『2030 半導体の地政学 戦略物資を支配するのは誰か』(日本経済新聞出版)から一部を抜粋、再編集して解説する(敬称略、肩書は執筆当時のもの)。
総額1兆円の投資 2年近くにわたった厳しい交渉
2021年10月14日、台北――。TSMCが日本で初となる工場を建設すると発表した。2022年に着工し、2024年末に量産に入る。米国アリゾナ工場とほぼ同着。この日の夜に記者会見した岸田文雄首相は「経済安全保障に大きく寄与することが期待される」と歓迎し、総額1兆円に及ぶTSMCの投資を政府として支援する方針を表明した。

このTSMCの決定に至るまで、日本政府と同社は2年近くにわたり、水面下で厳しい交渉を続けていた。
「まだあきらめてはいません。決して無理やり引っ張ってくるのではありません。日本に来るメリットがあることを理解してもらえるよう、頑張って交渉しているところです」
2020年6月、経済産業省の幹部はこう告白した。TSMCに日本への工場進出を働きかけ、同社にいったんは保留を告げられた後のことである。これより先の5月に、トランプ政権と台湾当局はTSMCのアリゾナへの誘致計画を明らかにしている。日本は誘致競争で米国の後塵(こうじん)を拝していた。
「アリゾナにどのレベルの技術を持っていくか。TSMCはジレンマに陥り、今、必死に考えているはずです。米政府に要求されれば、出ていかないわけにはいかない。けれども最先端の技術を渡せば、台湾の工場の競争力が落ちてしまう……」
アリゾナ工場が動き出すのは2024年である。計画ではTSMCが既に量産を軌道に乗せている5ナノの技術で生産する。だが、同社は5月にさらに微細な3ナノの生産にも入り、その先の2ナノにもめどをつけている。いずれも台湾国内の工場での生産だ。稼働する頃にはアリゾナ工場の技術は最先端ではなくなり、ありふれたチップを作る場所になっているかもしれない。
そこに経産省の淡い期待があった。誘致競争では米国に先を越されたが、より高度な技術を日本に移転してもらえれば、日本の方が地政学的に有利になる可能性はゼロではない。何よりも、最先端の技術を日本の国内に持つことが大事だった。米国は日本の同盟国だが、TSMC誘致ではライバルだった。
日本の安全保障のためにTSMCの技術を手に入れたい。そのために政府として何をすればいいのか……。
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