定住型より遊牧型の方が、「呪い」という負の感情が心にたまりにくい
僕がこうして「たくさん旅をしてモビリティを上げた方がいい」というのには、実は自分自身への反省も含まれています。というのも、僕は東京のたまプラーザで生まれ、28歳まで実家で暮らし、その後も世田谷区の中で駒沢、深沢、岡本あたりを転々としていました。
「モビリティを上げた方がいい」と言いながら、葉山への移住を45歳で決断するまで、自分自身はほんの半径数キロ圏内で暮らしてきたわけです。ですから、自分の来し方を振り返ったとき、若い頃、もっとモビリティを上げておいてもよかったんじゃないかという思いがあるのです。
実家を出て最初に暮らした駒沢の小さなマンションは、とても気に入っていました。「sense of belonging」、ニュアンスが難しいですが、日本語に訳すと「自分が本当にいるべき場所はここであるという感覚」となるでしょうか。それがしっかりと自分の中にあって、長く暮らしていても「しっくりくる」感じが薄れることはありませんでした。古い物件をリノベーションしたもので、窓には渋いステンドグラスが嵌(は)められていました。全体的に、どこか修道院のような雰囲気が漂っていて、とても居心地がよかったのです。
それから、結婚して家族が増えたり、自分自身が転職したりで、近所で住まいを何度か変えました。古びた小さなマンションから、次第に広くて、新しくて、どことなくゴージャスな感じのする住まいへと居を移していきました。
でも、そのたびに僕の中で「sense of belonging」の感覚はどんどん薄れていきました。引っ越し前に物件を内見する段階では、「今よりもっと広いところに住めるぞ」とテンションが上がりとてもワクワクしているのです。ところが、引っ越して数か月すると、「何か違うな、しっくりこないな」という感覚が膨らんでいきます。そんなことを繰り返すうち、序文で書いたように葉山(神奈川県)への移住を決断するに至りました。
そんな僕自身の半生を「場所」というテーマで振り返ってみると、「記号」が一つのキーワードとして浮かび上がってきます。土地にはそれぞれに「記号」を与えられています。たとえば、東京の広尾であれば高級住宅街という「記号」が、六本木であればいわゆる成功者が集うリッチな街という「記号」が一般的にはつけられています。
住んでいる場所は、その人にとって一つのアイデンティティですから、わかりやすい「記号」を欲しがる人が多いのもよくわかります。そして、僕自身が東京で転居を繰り返すたびに「sense of belonging」の感覚を失っていったのは、その「記号」にだんだんと囚(とら)われていく過程だったのかもしれません。
「記号」にこだわらずに、「sense of belonging」を大切にした方がいい。
これが、僕が自分自身への反省も踏まえて、お伝えしたいことです。
実際、それぞれの「場所」に足を運んでみると、世間から与えられている「記号」には収まりきらないものが必ずあります。いかにも高級住宅街といった感じのピカピカの新築マンションのすぐそばに、古くからの下町っぽい商店街が続いていて、昔ながらのお風呂屋さんが建っていることもあります。そこに腰の曲がったおばあちゃんがシルバーカーを押しながら通っていることも。1~2㎞の狭い範囲内でも、自分の足で見て回ると、ずいぶんと違う人生のありようが見えてきます。
「いい人生を送りたい」というのは、誰しもが望むことですが、「よさ」のありかたの幅をもっと広げた方が幸せに生きられると思います。「よさ」のありかたを一つしか知らないと、その「よさ」を実現できないことが見えた時点で、残りの人生を敗者として生きていかなくてはならなくなります。
それはとても苦しいことです。そういう意味でも、いろんな場所に出かけていき「記号」に収まりきらない多様なものに触れることをおすすめします。自分が普段とらわれている「記号」とは無縁のところで、「いい人生」を送っている人と出会うたびに、「よさ」のありかたの幅は自然と広がっていきます。
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