東芝は歴代3社長の下で、7年間にわたり不正会計を繰り返していた。関西電力は30年以上にわたって75人もの幹部が利害関係者から金品を受領していた。この間、社内で「おかしい」「もうやめよう」と声を上げる者はいなかった。はっきりと物言わぬ奥ゆかしい日本文化が、えたいの知れないモンスターをつくり出し、人心を支配していた。人ごとではない。
1944年6月6日、ビルマ(ミャンマー)北西部の戦闘司令所──。
この日、ビルマ方面軍隷下の第15軍司令官、牟田口廉也中将は、上司である方面軍司令官、河辺正三中将の訪問を受けていた。牟田口がインド北東部のインパールを攻め落とす作戦を決行したのは3カ月前。兵たんを無視したずさんな計画の結果、前線の部隊では戦死者、餓死者、病死者が膨れ上がり、すでに誰の目にも作戦の失敗は明らかだった。

戦闘司令所での朝食後、2人の司令官は兵員の増強や師団長の人事に関して1時間以上協議した。話し合いが終わりに近づいたその時、両者はふと黙り込んだ。
沈黙の中、牟田口は河辺を見つめながら葛藤していた。
「私は『もはやインパール作戦は断念すべき時機である』と咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」
戦後、防衛庁(現・防衛省)防衛研究所の調査で牟田口はこのように証言している。
牟田口とは付き合いが長いだけに、河辺にもその心中は痛いほど伝わっていた。日記には「牟田口軍司令官の表情には、なお言おうとして言えないでいる何物かが存在する印象があったが、私もまた露骨にこれを見極めることなく別れた」と記している(編集部で古語を新語に修正)。
結局2人とも「中止」を言い出せずに、作戦はその後1カ月間も継続した。河辺がようやく中止を決断し、撤退してみれば、作戦に参加した10万人のうち3万人が戦死し、2万人が戦傷や戦病で後方に送られ、残存兵力の5万人のうち半分以上は病気にかかっていた。
ビルマの防衛力強化を目的としたインパール作戦は、防衛態勢を破綻させるという、惨憺(さんたん)たる結果に終わった。
誰もが内心で「おかしい」と思っていても、組織内でそれを口にする者がおらず、深みにはまっていく──。そんな経験を持つ読者は少なくないのではないか。
現代の「牟田口・河辺会談」は、あちらこちらの職場で散見される。
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