現在の「ステークホルダー資本主義」への違和感

 この問いに対し現在主流となっている答えは「ステークホルダー資本主義」の考え方だ。つまり、会社の所有者は株主だけでなく、従業員、取引先、地域社会などであるとする主張である。

 確かに、株主は法律上、借金を除き会社の財産を占有するが、会社の「価値」は、賃金上昇や取引拡大、納税といった形で株主以外にも波及する。東レの日覺昭廣社長が「株式時価総額は企業価値全体のせいぜい20%程度」と発言しているのは興味深い。

 しかし、この「利害関係者 = 所有者」というステークホルダー資本主義の概念は、幅が広過ぎて不都合が生じる。関西スーパー側の圧力に屈した、もしくは自ら迎合して賛成票を投じた取引先株主らは、関西スーパーという「法人」にとって、たたえられるべきステークホルダーだっただろうか。オーケーによる買収案をサボタージュするため、株主に圧力をかけた疑いがある関西スーパー社員はどうだろう。

 筆者は、役員、社員、株主、取引先そして地域社会のうち、「法人の永続的利益を願って主体的に関与する者」こそが法人の所有者たり得ると考える。逆に、受託者責任の乱用者や、それと結託するフリーライダー(ただ乗り)たちは、ステークホルダーからも社会からも非難を浴びせられるべき謀反者だ。

 この考えは16世紀の法人の起源に着想を得ている。

16世紀までさかのぼる「法人」の起源

 東京大学名誉教授の岩井克人氏によると、法人の起源は資本主義とは関係がなく、16世紀ごろの西欧中世における教会や大学、自治都市といった非営利法人から始まったという。

 教会の敬虔(けいけん)な信者らが「来世の魂の平安のために、死後も自分のために祈ってほしい」と願い、聖職者個人ではなく、より永続的な教会を人に見立てて寄付をするようになった。それが、誰のものでもない、社会的責任を果たすための組織としての「法人」につながった。「出資者への利潤配当」は後から出てきた概念で、それと法人が組み合わさって会社の仕組みが生まれた。

 日本式にいえば、檀家に支えられるお寺と個人事業主の中間的存在が会社といえる。だとすると、離檀してお布施も払わないのに、先祖の墓をそのまま寺に放置する人たちは、まだお寺の「ステークホルダー」だろうか?

 お墓はまだあるのでお寺の盛衰に影響は受けるが、どうなろうと文句を言える立場ではないだろう。相応の責務を果たしてこそステークホルダーで、私物化やタダ乗りする者はステークホルダー失格と考えるのが妥当だ。

 法人の起源をたどれば、法人の永続性を望む気持ちと責任ある行動が伴わなければ、ステークホルダーたり得ないことが分かる。すなわち、本来の意味でいう「アクティビスト」だ。アクティビストは「もの言う株主」などといわれるが、本来は法人を想い、必要あれば傍観せず行動するという意味であり、 その本質は16世紀当時のステークホルダーの概念に内包されていた。私たち人類がその後500年の間、カネ稼ぎに夢中になるうちに「心」の要素が抜け落ちただけなのである。

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