
2021年のノーベル経済学賞は、米カリフォルニア大学バークレー校のデービッド・カード教授、米マサチューセッツ工科大学(MIT)のヨシュア・アングリスト教授、そして米スタンフォード大学のグイド・インベンス教授の3氏に贈ることが決まった。受賞者のうちカード教授は、賃金と雇用の関係を実証的に解き明かし、労働経済学の進展に貢献したことで知られ、最低賃金引き上げなどの論議にも一石を投じてきた。博士課程の学生時代、カード教授に指導を受けた安部由起子・北海道大学大学院経済学研究院教授の寄稿を掲載する。
カード教授がノーベル経済学賞の受賞が決まったというニュースは、筆者にとって大変うれしいものであった。カード教授は労働経済学分野に多大なる貢献をされてきた。その研究が過去30年くらいの間、労働経済学における多くの実証研究の基礎となったことは間違いないと思う。
カード教授には、職業訓練や貧困対策の効果、労働組合の効果、賃金に対して労働時間がどう反応するか、賃金構造と賃金格差、企業での賃金決定……などのトピックで、統計的な手法を駆使した研究が多数ある。筆者が米プリンストン大学で大学院生として学んでいた1989年~94年の時期に、カード教授は同大学の教授として研究に教育にと、活躍しておられた。
今回のノーベル経済学賞発表の際にカード教授の貢献と強調して言及された論文は、(1)最低賃金に関する一連の研究、(2)移民に関する研究、(3)教育の質と教育の収益率に関する研究、であった。
このうち、最低賃金の研究が研究以外の場面で受け止められるとき、前提条件などがもう少し明確に伝わったほうがよいのではないかと筆者は考えている。カード教授とプリンストン大学の故アラン・クルーガー教授による最低賃金の研究から、「最低賃金を上げても雇用は減らない」という結果の部分だけを取り出すことで、「それなら最低賃金を上げても問題はない」という解釈になりうるからだ。
そしてそのことが、最低賃金を上げるほうが望ましいという意見を持つ人たちからの「経済学の科学的な研究によれば、最低賃金を上げても雇用は減らないことが示されている。だから、最低賃金を上げるべきだ」という主張をサポートすることにつながるかもしれない。
例えば今回の受賞が朝日新聞デジタルで報道された際も(「ノーベル経済学賞にカード、アングリスト、インベンスの米3氏」、2021年10月11日)、記事に対する朝日新聞記者のコメントが2021年10月12日午前0時19分に投稿されていた。
投稿には、「ノーベル経済学賞の選考委員会が、最低賃金引き上げ側に与する意図があったのかどうかはわかりません。彼らの権威を神聖視するかのごとく、むやみにありがたがる日本メディアの習性もどうなのかと思います。ただ、この授賞が結果的に最低賃金引き上げを求める声を一段と強める可能性はあるのではないかと思います」などとあった。
最低賃金の引き上げを直接主張する内容はない
だが筆者は、カード教授とプリンストン大学の故アラン・クルーガー教授による本『Myth and Measurement: The New Economics of the Minimum Wage』(Princeton University Press、1995年)の最終章、「Policy Implications(最低賃金の政策的含意)」について書かれていることを字義通りに読めば、「最低賃金の引き上げ」を直接主張する内容はないと理解している。以下、同書393ページから395ページの内容を紹介しつつ、筆者の解釈を紹介させていただく。
第1に上記の書籍では、「最低賃金を上げても雇用の減少は大きくない」ことには、いくつもの留保条件が付いている。本の中での説明は、「最低賃金の上昇が大幅なものでなければ、その上昇が雇用を減らす程度は、さほど大きくない。したがって、(当時思われていたよりも)最低賃金の非効率性は実際の大きさ以上に強調されている」というものである。ここで、「最低賃金が大幅なものでなければ」という条件が付いているし、また当時の米国の最低賃金の水準から出発して大幅でない上昇であれば、という留保条件が付いていると解釈するのが妥当であろう。
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