2020年7月1日、私が代表取締役会長を務めるオプトホールディングは、デジタルホールディングスへと社名を変更しました。ベンチャーでは創業してサービスが軌道に乗った後、サービス名称と同じ企業名に変更することは多々あります。しかし、オプトホールディングは創業から27年でまったく別の企業名に変えました。

 決断した背景にあったのは強い危機感でした。オプトをご存じの方は、インターネット広告事業のイメージが強くあるでしょう。事実、インターネット広告はこれまでの成長をけん引してきた主力の事業でした。そしてこの後も、10年はこの事業で成長を続けることができたでしょう。

 社名を変更してまでなぜこのタイミングで方向転換しようとしているのか、疑問に思う方がいるかもしれません。社名を変更したのは、デジタルトランスフォーメーション(DX)を支援する企業へと生まれ変わる決意をしたためです。

 皆様にも、デジタル産業革命が起こす変化を決してひとごとではなく、自分ごととして受け止めていただくためにも、私がこれまで経営者として経験してきたことをお話ししたいと思います。これまでの経営者としての人生を追体験していただくことが、皆様へのヒントになるかもしれないからです。

中学生で決意した起業への道

 私が起業を決意したのは、戦国武将の列伝に夢中になった中学時代にまで遡ります。今でも尊敬する人は誰かと聞かれると、即座に「織田信長」と答えますが、彼や武田信玄、徳川家康らの伝記を読みあさる中で、日本に生まれたからにはこの国に何かしらの足跡を残すようなことを成し遂げたい、と子どもながらに決心しました。

 どの分野で足跡を残そうかと考えたときに思い浮かんだのが、経営者と政治家と教師でした。誰かの人生に大きな影響を与える仕事がこの3つだと、中学生当時の私は考えたのです。3つの選択肢の中で、自分に一番向いているのは何だろう? 将来の可能性はあるのだろうか?と悩んだ結果、出した答えが経営者でした。将来自分で起業しようと、そのとき心に決めたのです。

 当時の決心はその後も揺るがず、起業することへの熱意は冷めませんでした。しかし、どんなビジネスで起業するのかは、高校卒業時点でもまったく見つかっていませんでした。少しでも早く社会人になりたかったため、大学進学は正直迷いました。ただ、起業して実現したいことがまだ見つかっていなかったこともあり、とりあえず大学に行こうと決めました。

 それでも結局、大学生の間に何を事業にしたいのかを見つけることができず、就職活動のタイミングを迎えることとなりました。縁もあって森ビルに入社しましたが、当時から、3年で辞めることを周囲に宣言し、背水の陣を敷きました。

 最初の2年間はとにかくがむしゃらに働きました。社内でも一番残業の多い部署でしたが、上司にも恵まれ、働くことがとにかく楽しかったことを覚えています。最後の1年は定時後早めに帰宅し、事業の構想を練ったり、起業の方法を調べたりする日々を過ごしました。

 起業について調べていく過程で、ベンチャーキャピタル(VC)の存在を知ったり、経営のノウハウを学んだりと、様々な知識を身に付けていきました。その中で、当時、都市伝説のように流れてきた話に、私の起業への決意が揺らぎます。

 それは、創業から1年後に残っている会社は半分しかない、10年後も生き残っている会社は1%に満たないという、不安に駆られる話でした。後で嘘だと分かるものの、その話を信じた私は、果たして起業しても本当にうまくいくのだろうかと立ち止まってしまいました。

 99%が失敗する世界で、私は1%の成功者になれるだろうか。確率からすると、かなり大きな賭けに出ることになります。大学の友人たちが大企業や一流企業に勤め、順調にキャリアアップしていく傍らで、失業して道から外れてしまうのではないか。収入が途絶えて路頭に迷うのではないか。そんなみじめな未来を真剣に想像してしまったのです。

衝撃を受けたエジプト旅行での出来事

川岸に近づいたクルーズ船にお土産を投げてくる現地の人々の様子。エジプト旅行で生じた強烈な違和感が起業の決意につながった
川岸に近づいたクルーズ船にお土産を投げてくる現地の人々の様子。エジプト旅行で生じた強烈な違和感が起業の決意につながった

 起業への不安を一蹴するきっかけとなったのが、1993年のエジプト旅行でした。特にエジプトに思い入れがあったわけでもなく、たまたま格安ツアーがあったから決めた渡航先でした。

 ツアーのメインは、遊覧船で巡るナイル川クルーズ。最初はただ優雅な気分で移りゆく景色を満喫していました。ふと川べりに目を留めると、川の水で洗濯をしている現地の人々がいました。半面、遊覧船の中を見渡せば、裕福そうな日本人と欧米人ばかり。3階建てのクルーズ船が川岸に近づくと、現地の人々は手作りのTシャツやテーブルクロスなどのお土産をツアー客に向けて投げてきました。どうやら、ツアー客は甲板でそれらをキャッチして、気に入ればビニール袋に現金を入れて投げ返す仕組みのようでした。

 ツアーの恒例行事のようなものかな、と遊び感覚で現金を投げましたが、私が投げたお金をキャッチした現地の人は、膝をついて現金を天にかざし、お祈りを始めたのです。その姿に衝撃を受けました。

 当時25歳の何も成し遂げていない若造が、豪華客船からお金を投げ、それに対してお祈りをする人がいるのです。強烈な違和感を覚えました。

 その違和感は、バブルまっただ中の就職活動時代に感じたものと似ていました。内定者は寿司や焼き肉などの高級グルメで囲い込まれ、一度就職すれば定年まで終身雇用の安定した人生が約束されると信じられていた時代です。まだ何もしていない学生が内定をもらってチヤホヤされ、年功序列で役職が上がり、年収も上がり、定年退職すれば退職金と年金で死ぬまで楽に暮らせる。そんなおいしい話が本当にあるのだろうか、何かがおかしい、と感じたことを思い出したのです。

 そのとき自分の置かれていた環境のありがたさと、その環境が決して自分でつくったものではなく、与えられたものだということに気づきました。私たちは先人たちがつくり上げてきた豊かな社会の恩恵にあずかっているだけにすぎません。

 私の両親は戦争を経験している年代です。日本でも少し時代を遡れば、川で洗濯していた時代がありました。先人たちが多大な苦労や挑戦を続けたからこそ、今の日本は繁栄している。今を生きる私たちも、先人と同じようにチャレンジしなければ、未来の子孫の代には日本が廃れかねない。今の環境のありがたさを、次の世代につなげていく責任がある。ナイル川を行く船の上で、そう強く感じたのです。

 帰国後、退職の明確な意向を周囲に伝えました。上司や友人はおろか、家族まで誰一人として賛成してくれませんでした。すでにバブルははじけていましたし、一生安泰が約束されている大企業の会社員の座をなぜ手放すのかと、なかなか理解してもらうことはできませんでした。

 父に初めて二人きりの食事に誘われ、「サラリーマンが務まらないやつに、起業なんてできるわけがない」とはっきりと言われました。父は公務員でしたから、息子の決断は理解に苦しむものだったのでしょう。親戚にも起業した人は誰一人いませんでした。

 心配してくれることにありがたさも感じましたが、安定志向の父の働き方を反面教師にしていたこともありましたし、何よりエジプトでの強烈な光景が目に焼きついていて、自分の中ではすでに心を決めていました。

 大企業から飛び出して起業するという挑戦自体にこそ意味があると、強い使命感がありました。失敗したって死ぬわけじゃないし、どうにかやっていけるだろうと考えるようになっていました。

(この記事は、書籍『ZERO IMPACT ~あなたのビジネスが消える~』の一部を再構成したものです)

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