開催中の東京五輪はどんな時代を映す大会として日本人に記憶されるだろうか。1回目の東京五輪が開かれた高度経済成長期との比較を通じて、成熟期を迎えた現代日本の実相と今後の針路を考えていく。一緒に考察してくれるのは、オリックスの宮内義彦シニア・チェアマンだ。
宮内氏が新人として日綿實業(現・双日)に入社したのは1960年である。当時の池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出し、高度成長期が幕を開けた年だ。東京五輪を通じて日本の戦後復興を世界にアピールした64年には、日綿のグループ会社としてオリエント・リース(現オリックス)の立ち上げに加わった。高度成長とともに会社人生を歩んだ宮内氏は、今回のテーマにぴったりと言える。
戦後日本の繁栄を支えた経済人は何を語る。

振り返れば8年前に2回目の東京五輪の開催が決まった当時、これで国内の景気が上向くのではないか、「失われた20年」を取り戻せるのではないかとの高揚感がありました。宮内さんもそのころ、「五輪に向けて政府の成長戦略を軌道に乗せ、国内の雰囲気を変えていこう」という趣旨の文章を自伝に書いていましたね。けれども結局、日本人の先行きに対する見方は好転しないまま、個人の消費も企業の設備投資も低迷しました。
宮内義彦オリックス・シニア・チェアマン(以下、宮内氏):僕は完全に読み違えていました。僕のような旧世代は、1964年の東京五輪の記憶があって、興奮してしまったのです。戦後、五輪が開けるような平和な時代を迎え、当時の日本人はうれしくてしょうがなかった。今回の東京五輪も、社会に何かすごいインパクトがあるのではないかと思ってしまった。
けれど、五輪が日本に大きなインパクトを与え得るのは、後にも先にも1回だけなんだということに気付かされました。成熟社会となった現代の日本で2度目の東京五輪を開く必要はなかった。
前回の東京五輪から半世紀余りを経て、消費や働き方に対する日本人の考え方は大きく変わったようです。高度成長を支えた当時の会社員は、今とは比べものにならないぐらい働いていたのでしょうね。
あのころはみんなブラック企業だった
宮内氏:僕がまだペーペーのころ、みんな働きに働いていた。だから日本は戦後復興できたのでしょう。生産性が高かったかどうかはともかく、労働時間は長かった。深夜残業は当たり前。今の基準で言うと、どこもブラック企業です。
私が社会人になったころ、課長以上はだいたい第2次世界大戦中に兵隊として駆り出されていました。だから戦後の平和を心の底から喜んでいました。平和になったんだから、今度は経済的な豊かさを追求するんだということで、国民のコンセンサスも得られていたんじゃないかな。
とはいえ、さすがに当時の企業戦士も週末は休んでいたのでは?
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