この「極言暴論」がまもなく10周年を迎えるので、最近、過去の記事を再度読み返している。これまでの記事の総括を今やろうとは思っていないが、大きな問題に気付いたので、今回はそのことについて記してみたい。何の話かというと、このコラムが暴論であるにもかかわらず、希望的観測を貫いてきてしまったことだ。SIerやIT部門、そして企業経営者や政治家、官僚たちの愚かさをコテンパンにしても、そこには「いつかは変わってくれるはず」との楽観があったのだ。

 少しネタバレすれば、技術者はもちろんSIerなどITベンダーの経営者や幹部、ユーザー企業のCIO(最高情報責任者)、官僚などに「極言暴論のファン」という人たちが大勢いる。だからこそいろんな情報が集まるわけで、こうした改革派とおぼしき人たちを支援するのが、極言暴論の隠れた狙いだ。例えば「木村がまた、こんなとんでもないことを書いているぞ。頭にこないか」などと、DX(デジタルトランスフォーメーション)などへの抵抗勢力に対する説得材料の1つに使ってもらうことも想定していた。

 何せ経営者や官僚、政治家、そして技術者も(そうでない人も)誰も彼もマインドを変え、日本企業や官僚組織が変革に乗り出してもらわないと話にならない。極言暴論の連載を始めた頃、日本経済の大スランプは「失われた20年」と呼ばれた。で、そこから脱却するには、日本企業や官僚組織、そして社会全体がDXに取り組むしかない。当時はまだDXという言葉はなかったが、デジタル(=IT)を使ったビジネス構造の変革が必要なのは当時から変わらない。

 そんな訳なので、「失われた20年」はこの極言暴論、そして私のもう1つのコラムである「極言正論」では議論の前提であった。つまり「日本は経済スランプで20年もの年月を失ってしまったが、過去は変えられない。これから先、どう変革していくかが課題だ」というわけだ。しかし、いつの間にか「失われた30年」が語られるようになった。つまり、この10年の間、変われない日本のまま時を空費し、日本経済や日本企業の競争力低下に歯止めがかからなかったわけだ。

 これは何を意味しているのか。私だけでなく、多くの識者やメディアが「失われた20年を取り戻せ」といった主張を繰り広げ、そのためにどうするのかという処方箋も数多く提示されている。そもそも2012年12月に発足した第2次安倍晋三政権の経済政策、いわゆるアベノミクスもそのためのものではなかったのか。3本の矢のうち金融緩和や財政出動で時間を稼ぎ、その間に規制緩和などの成長戦略により民間の投資を引き出し、イノベーションによる社会変革や経済の持続的成長を実現するはずだったと認識している。

 だが現実は、そのための10年が単に「失われた20年」にもう10年を追加するだけに終わった。そうだとすると極言正論の記事でも指摘したが、30年も不作為を決め込んでいた企業や政治、行政が突然悔い改めて、DXやイノベーションなどの改革に全力を傾けることなど到底できるわけがない。このままズルズルと日本経済や日本企業は競争力を落とし続け、ついに奈落へと至る。冷静に考えれば、これがメインシナリオである。つまり極言暴論や極言正論の前提である希望的観測は全面修正せざるを得ないのだ。

関連記事 「失われた30年」でなく「失った30年」、デジタル革命を逸した日本の危機

次ページ 不作為の30年で「取り返しのつかない競争力格差」