鄧小平(中央左)は1978年に訪日。新幹線に乗車した際、「訪日で近代化とは何か分かった」と語ったと伝わる。握手しているのは当時の首相、福田赳夫(写真:KURITA KAKU/GAMMA/アフロ)
鄧小平(中央左)は1978年に訪日。新幹線に乗車した際、「訪日で近代化とは何か分かった」と語ったと伝わる。握手しているのは当時の首相、福田赳夫(写真:KURITA KAKU/GAMMA/アフロ)

(「中国共産党100年、毛沢東を回想『見果てぬ社会主義建設への闘争』」も併せてお読みください)

 毛沢東の後継が直ちに鄧小平となったわけではない。鄧は1976年1月、後見人であった周恩来の死後、「悔い改めない実権派」として一旦は再び失脚した。しかし1977年7月に再度復活。毛沢東の「後継」を自認していた華国鋒らとの激しい権力闘争を繰り広げ、1978年12月の第11期党中央第3回総会(三中全会)で、経済建設、近代化路線への転換に成功した。

 鄧小平の考え方はクリアーであった。すなわち、極度に貧しい状況に置かれていた中国および中国の人々を豊かにすること、そのためには先進的な西側の技術、資本、人材を巧みに取り入れ活用することであった。「中国共産党100年、毛沢東を回想『見果てぬ社会主義建設への闘争』」の回で触れた「白猫黒猫論」という実践哲学が十二分に発揮されるようになった。

 さらに避けて通れぬ毛沢東評価では「三七開」(三分の批判、七分の評価)というやり方で決着をつけ、改革開放路線を推進する政治的環境を整えた。その上で外資、先進技術の導入をもくろむ経済特別区を深圳、珠海、厦門、汕頭に設置。人民公社を解体し農業請負制を推進。やがて市場経済導入などの政策を大胆に推進した。

 しかし、すでに高齢となっていた鄧小平は自らが最高指導ポストに就くことはなく、後継者として胡耀邦を党総書記に、趙紫陽を国務院総理に指名し、自らは一歩下がって大局的な指導をする、いわゆる「トロイカ体制」によって改革開放の推進を図った。ただし軍の最高権力、党中央軍事委員会主席のポストは鄧が掌握した。

政治改革はもろ刃の剣

 政治改革の面でも、党・指導幹部の定年制導入・権力集中の抑制などいくつかの取り組みを進めた。しかし、政治改革論議は党指導の問題、民主化の問題に触れるもので、政治的緊張が高まり、やがて1989年、天安門事件を引き起こすこととなった。

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