全米のホテルの81%が破産したという、世界大恐慌の時代。ホテル業界にとっては、コロナ禍の今と負けず劣らず、厳しい時代だった。

 そこで辛酸をなめた一人が、コンラッド・N・ヒルトン。「ホテル王」と呼ばれる、ヒルトン・ホテルチェーンの創業者だ。急成長企業にありがちな財務基盤の脆弱さから、天国から地獄に突き落とされたのは、前回の通り。そこからいかに復活を遂げたか。『大恐慌の勝者たち』から抜粋してお届けする。

写真左端がコンラッド・N・ヒルトン。1955年、「ヒルトン・イスタンブール」のオープニングで撮影されたカット(写真:ユニフォトプレス)
写真左端がコンラッド・N・ヒルトン。1955年、「ヒルトン・イスタンブール」のオープニングで撮影されたカット(写真:ユニフォトプレス)

 1929年、「ホテル王」こと、コンラッド・N・ヒルトンが満を持して巨大ホテルの建設を発表してから、わずか19日後、ニューヨーク株式市場で株価が暴落。巨大ホテルの開業パーティーは最後の宴となり、それから1年足らずで、ヒルトンは「破産状態」に追いこまれた。急成長企業の経営基盤は脆弱だった(詳しくは前回)。

破産しても、希望を持つことは可能である

 しかし、ヒルトンが諦めることはなかった。その財布には、雑誌から切り抜いた1枚の写真が入れられていた。ニューヨークの名門「ウォルドルフ・アストリア・ホテル」だ。大恐慌に抗(あらが)うようなその壮麗なたたずまいは、 ヒルトンに勇気を与えた。「ほとんど忘れかけていた高い山、広い地平線をかいま見た」というヒルトン。

「私自身の小さなホテルの世界は崩壊するかもしれない。私自身の山は崩れてしまうかもしれない。しかし、これがアメリカであった。私はなおも希望を持つことができた。なおも夢を見ることができた」

 再起を模索するヒルトンに、一筋の光が差し込んできた。

 ヒルトンが経営していた「エル・パソ・ヒルトン」を差し押さえたムーディ家だったが、将来性がないとして、手放そうとしていた。ホテルに土地を貸していた地主のアルバート・マシアスから、未払いの地代3万ドルの支払請求を受けたムーディ家は、地代を支払う代わりに、エル・パソ・ヒルトンそのものを差し出すといいだしたのだ。

 しかし、マシアスにもホテルを経営するつもりなどない。

チャンスが訪れるも、金がない

 そこでマシアスは、かつてのオーナーであったヒルトンに、ムーディ家に要求している地代を代わりに払ってくれれば、ホテルを経営させてやると提案してきた。

 175万ドルもの巨費をかけて建設したホテルの経営権が、たったの3万ドルで戻ってくるというのだ。

 しかし、時期が悪かった。この時のアメリカは、銀行の倒産が多発するなど、融資環境は最悪だった。「30セントも集められそうに思われなかった」という破産状態のヒルトンにとって、3万ドルはとてつもなく大きな金額であった。

続きを読む 2/4 かき集めた金で「雇われ社長」からの再スタート

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