
1929年、「ホテル王」こと、コンラッド・N・ヒルトンが満を持して巨大ホテルの建設を発表してから、わずか19日後、ニューヨーク株式市場で株価が暴落。巨大ホテルの開業パーティーは最後の宴となり、それから1年足らずで、ヒルトンは「破産状態」に追いこまれた。急成長企業の経営基盤は脆弱だった(詳しくは前回)。
破産しても、希望を持つことは可能である
しかし、ヒルトンが諦めることはなかった。その財布には、雑誌から切り抜いた1枚の写真が入れられていた。ニューヨークの名門「ウォルドルフ・アストリア・ホテル」だ。大恐慌に抗(あらが)うようなその壮麗なたたずまいは、 ヒルトンに勇気を与えた。「ほとんど忘れかけていた高い山、広い地平線をかいま見た」というヒルトン。
「私自身の小さなホテルの世界は崩壊するかもしれない。私自身の山は崩れてしまうかもしれない。しかし、これがアメリカであった。私はなおも希望を持つことができた。なおも夢を見ることができた」
再起を模索するヒルトンに、一筋の光が差し込んできた。
ヒルトンが経営していた「エル・パソ・ヒルトン」を差し押さえたムーディ家だったが、将来性がないとして、手放そうとしていた。ホテルに土地を貸していた地主のアルバート・マシアスから、未払いの地代3万ドルの支払請求を受けたムーディ家は、地代を支払う代わりに、エル・パソ・ヒルトンそのものを差し出すといいだしたのだ。
しかし、マシアスにもホテルを経営するつもりなどない。
チャンスが訪れるも、金がない
そこでマシアスは、かつてのオーナーであったヒルトンに、ムーディ家に要求している地代を代わりに払ってくれれば、ホテルを経営させてやると提案してきた。
175万ドルもの巨費をかけて建設したホテルの経営権が、たったの3万ドルで戻ってくるというのだ。
しかし、時期が悪かった。この時のアメリカは、銀行の倒産が多発するなど、融資環境は最悪だった。「30セントも集められそうに思われなかった」という破産状態のヒルトンにとって、3万ドルはとてつもなく大きな金額であった。
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