1920年代のアメリカでは、「黄金の20年代」と呼ばれていた好景気を背景に、株価が上昇を続け、やがて暴騰と呼べる状況となった。28年に203.35ドルで始まったダウ平均株価は、翌29年9月3日に381.17ドルと2倍近くに達していた。

 ここから株価は明らかな下落基調となった。暗黒の木曜日の前日の29年10月23日も6.3%の下落となり、ダウ平均株価は305.85ドルと、高値から2割も下落していたのである。

長年の株高が、人々の目を曇らせる

 しかし、長期にわたる株高を経験してきた市場関係者のほとんどが、この下げは一時的で、すぐに回復すると信じていた。10月15日、高名な経済学者アーヴィング・フィッシャー教授は株式市場関係者を前に「株価は数カ月以内に今よりずっと高値になる」と語りかけ、暗黒の木曜日の前日である10月23日にも、銀行家を前に「株価が暴落するのではという懸念は、現在の経済状況から見ると全然根拠がない」と勇気づけていたほどだ。

 こうしたなかで、株式市場は10月24日を迎えた。取引開始直後こそ落ち着いていたが、すぐに大量の売り注文が出されて、市場はパニックに陥った。主要な指標は20%の下落となり、投機銘柄の代表だったRCA(Radio Corporation of America)株は35%を超える暴落となる。

 異変を聞きつけた1万人もの人々が、ニューヨーク証券取引所の周りに集まってきた。 警察は騎馬部隊を含めた600人態勢で秩序の維持を図り、取引所の入り口にロープを張った。新聞社や記録映画カメラマンは向かいのビルに陣取って、歴史的な瞬間の撮影を始めていた。

暴落の食い止めを図った銀行家たち

 ところが、午後に入ると状況は一変する。銀行家たちが、株式の買い支えで共同歩調を取ることを決めたのだ。先陣を切ったのはモルガン商会だった。午後1時半過ぎに代理人が取引フロアに姿を見せると、USスチール株に直前の取引価格より10ポイント近く高い価格で大量の買い注文を出した。これに続いて、他の銀行家たちもまとまった買い注文を出したことで、株価は反発に転じる。

 この日の出来高は1289万株という空前の規模に達したものの、ダウ平均株価の終値は前日の終値比6ドル安の299.47ドル、下落率は2.09%という小幅安で取引を終えているのである。

 翌日の米紙ウォールストリート・ジャーナルは「銀行家が株価暴落を阻止 モルガン商会における会議の後、2時間の雪崩のような売りは収束」と伝えている。

 10月24日、 株式市場は一時的にパニックに陥ったものの、株価暴落は食い止められていた。下落率は前日の3分の1と「下げ止まり」の印象すら与えるもので、終値で見る限り、暗黒の木曜日は「暗黒」ではなかったといえる。

 続く金曜日と土曜日(午前中のみ)の取引も平静で、人々は胸をなで下ろした。米大統領のフーヴァーも25日の声明で、「この国の基本的な事業、すなわち財の生産と分配は、健全かつ繁栄の基礎の上にある」と、強気の姿勢を崩すことはなかったのである。

本当の「暗黒」は、月曜日にやってきた

 安定したかに見えた株式市場だったが、これはフェイクだった。本当の「暗黒」は翌週にやってきた。 28日の月曜日は本当の暴落となった。ダウ平均株価の下落率は12.8%、この時点での史上最大の下落率であり、これを破ったのが1987年10月19日の「ブラックマンデー」の22.6%。1929年10月28日は、「元祖ブラックマンデー」として歴史に刻まれたのである。

 今度は銀行家たちもどうすることもできなかった。翌日の火曜日も「暗黒」となっ た。下落率は月曜日に匹敵する11.73%、取引高は24日をさらに上回る1641万株と史上空前の規模に達する。後に「悲劇の火曜日」「アメリカが終わった日」などと呼ばれたこの日の終値は230.07ドル、9月のピークから実に4割の大暴落となったのである。

次ページ ニューヨーク株式市場の「失われた25年」