和解し、法改正に尽力

 

 「和解してこの裁判を終わりにしたい」。勝訴が確定した後、処遇改善や名誉回復などを求めて裁判を続けていた浜田さんは、自身の弁護団にこう告げた。弁護団の中で意見が割れたが、押し切った。

 浜田さんが提訴してから、丸8年。16年2月、浜田さんとオリンパスは和解が成立した。和解に応じたのは、早く普通のサラリーマンに戻りたかったからだ。会社を痛めつけるために裁判を起こしたわけではなかった。

 会社から「会社に来なくていい。給料は払うから」と言われた。浜田さんは「そんなサラリーマンいますか? そんな特権をもらうために裁判をしていたわけではありません。普通に、働かせてください」と求め、受け入れられた。海外勤務経験を生かし、人事部で海外赴任する若手の研修などの指導に従事。その傍らで、メディアや国会、シンポジウムの場で積極的に発言した。

今はオリンパスを退職した。今後、内部通報におけるコンプライアンス整備に関する講演活動などをしていくという
今はオリンパスを退職した。今後、内部通報におけるコンプライアンス整備に関する講演活動などをしていくという

 浜田さんは、内部通報を巡る訴訟で最終的に勝訴し、社会に大きな影響を与えた初めての人物として有名になった。「私は内部通報を巡る裁判の生き証人。残された時間を公益通報者保護法と向き合うための時間に費やしたい」。和解後、法的に未整備な部分を指摘し、従業員が300人を超える企業に通報窓口の設置を義務付けたり、通報を受ける「従事者」に罰則付きの守秘義務を課したりするなど、より通報者保護を強化する改正法の整備に尽力した。

 20年にオリンパスで定年を迎え、再雇用となっていた21年3月に会社が実施した希望退職に応募し、同社を退職した。今後も法改正を踏まえ、企業のコンプライアンス(法令順守)体制整備への支援に関わっていきたいと意気込んでいる。

 振り返れば、充実した会社員人生だった。あの苦しかった8年間を除いては──。自分の力を発揮できる職場で、社会のため、オリンパスのために働きたかった。カメラを触ることとバイクに乗るのが趣味。カメラも製造するオリンパスは憧れの会社だった。岡山県の高等専門学校卒業後に入った会社を辞め、24歳のときに中途採用でオリンパスへ入社。今でも「あなたの熱意と将来性を十分考慮し、合格といたします」という会社からの合格通知を大事に持っている。

 懸命に働いた。営業の仕事が忙しく、週2回しか家に帰れないこともあった。米国に赴任し、現地で営業成績が評価されて表彰されたこともある。04年に凱旋帰国。営業部門のチームリーダーに就任するなど、順風満帆だった。

 運命の転機が訪れたのは07年だった。

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