「失われた30年」の中で企業の活力と成長を取り戻した中興の祖を探る今回の企画。経営者ランキングで2位になったのが、ダイキン工業の井上礼之会長だ。業績悪化に苦しむさなかに経営のバトンを引き継ぎ、同社を空調機世界一へと押し上げた。井上会長に経営者として悩んだ決断や経営判断で重視していた点を聞いた。

<span class="fontBold">井上礼之(いのうえ・のりゆき)氏</span><br /> ダイキン工業会長<br />1935年生まれ。57年同志社大学卒業後、大阪金属工業(現ダイキン工業)入社。85年常務、89年専務を経て94年社長。2002年会長兼CEO(最高経営責任者)。2014年から現職(写真:今紀之、19年撮影)
井上礼之(いのうえ・のりゆき)氏
ダイキン工業会長
1935年生まれ。57年同志社大学卒業後、大阪金属工業(現ダイキン工業)入社。85年常務、89年専務を経て94年社長。2002年会長兼CEO(最高経営責任者)。2014年から現職(写真:今紀之、19年撮影)

ダイキンの社長に就任したのが1994年。「11人抜き」で社長に就任しました。

ダイキン工業の井上礼之会長(以下、井上氏):94年2月に社長交代の内示を受けました。出張先に菅沢清志会長(当時)から電話があったのです。当時専務でしたが、上には 11人の役員がいましたし、総務や人事、化学事業くらいしか経験がありません。創業家出身でもありません。社長就任は夢にも思っていませんでした。

 社長交代の記者会見で何を発言したのかよく覚えていません。記者に「今の心境は」と聞かれて「足が地についていません」と答えたところ、当時の山田稔社長に「それを言うなら“地に足が”やろ」と突っ込まれました。矢継ぎ早に質問が浴びせられる中で座右の銘を聞かれ、他人への思いやりを意味する「恕(じょ)」を好きな言葉として挙げるのが精いっぱいでした。

当時、ダイキンは厳しい経営環境に置かれていました。どんな心境で経営に取り掛かりましたか。

井上氏:就任直前の94年3月期は17年ぶりの経常赤字でした。売上高の7割を占める空調機事業の不振が大きな原因でした。バブル崩壊、円高、冷夏の「トリプルパンチ」を受けて、環境の変化に対応できないもろさを見せていました。

 ただ、当時の心境としては「会社は赤字だし、いろいろ言っても仕方ない。中長期のことを考える以前にまず黒字化。改革に取り組むのは今がチャンス」と捉えていました。

 私自身は化学事業部の主力工場である淀川製作所(大阪府摂津市)に長く勤務していたこともあり、空調機事業を一度も担当したことがありません。社長になって初めて会社の屋台骨を支える空調機事業に携わることになったのです。

この記事は会員登録で続きをご覧いただけます

残り3158文字 / 全文4019文字

日経ビジネス電子版有料会員なら

人気コラム、特集…すべての記事が読み放題

ウェビナー日経ビジネスLIVEにも参加し放題

バックナンバー11年分が読み放題

この記事はシリーズ「ガバナンスの今・未来」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。