「愛社精神」ではなく「エンゲージメント」
そもそも「うちの会社を何とか良くしたい」なんて思うのは、少し思い詰め過ぎなのではないか。何度も言って申し訳ないが、やはり気色悪いぞ。会社が生活の場、よって立つコミュニティーになってしまっているから、そんな発想が生まれるのだ。別の言い方をすれば、日本企業という奇妙な共同体、ムラ社会の一員になってしまっているから、郷土愛ならぬ会社愛にとらわれてしまうわけだ。
転職に抵抗のない人はそんな発想にとらわれないだろう。今いる会社で、自分のやりたい仕事ができて、成果を出して自己実現が図られ、納得できるサラリーを対価としてもらえるならば、それでよし。「こりゃ駄目だ」と思うなら、とっとと転職するだけである。あるいは、DXを実現すれば自分の仕事がさらに価値の高いものになると判断できれば、積極的にプロジェクトに参画するだろうし、DXの推進役で新たなキャリアをつくろうと思えば、プロジェクトリーダーの役割を喜んで務めるだろう。
例えば米国企業なら、DXあるいはBPRといった変革プロジェクトの担い手のノリは、そんなところだろう。前提として米国企業は5~10年もすればCEO(最高経営責任者)から現場の社員に至るまで全て入れ替わってしまう。そんな米国のビジネスパーソンには、ずっと同じ会社で「生活している」日本のサラリーマンのような愛社精神など存在しない。あるのは「エンゲージメント」のみである。
ちなみにエンゲージメントは、日本で最もいいかげんに使われている部類のカタカナ英語だ。エンゲージメントを「絆」と訳したり、従業員エンゲージメントを「愛社精神」と言ったりする。それって、全くのでたらめだからな。エンゲージメントは「積極的な関与」とか「がっぷり四つ」といったニュアンスの言葉だ。で、米国企業ではCEOから現場の社員まで、それぞれの野心や思いを秘めてDXにエンゲージメントするのだ。
CEOならもちろんエンゲージメントする。日本企業の経営者のように現場丸投げはあり得ない。DXにより収益力を上げたり新規事業を創出したりすることで、株主や投資家から高く評価されれば、やがて他社から今以上の好条件で新CEOへの就任を打診される。プロジェクトを推進した人たちも、DXに成功すれば「変革リーダー」としてのキャリアが築ける。そんな野心がなくとも、自分の仕事の価値がさらに高まるとか、プロジェクトそのものがエキサイティングだからとしてDXにエンゲージメントする人もいるだろう。
当然、皆が皆、DXにエンゲージメントするわけではない。DXの結果、自分の職がなくなる可能性があり転職先もすぐには見つからない人とか、仕事内容や役割が変わってしまうことをよしと思わない人ならエンゲージメントせず、むしろ強力な抵抗勢力となる。で、DXにエンゲージメントする人たちは、抵抗勢力に理念を説明して納得してもらったり、切り捨てたりしながら、DXを推進する。で、DXが成功しても失敗しても、まもなくDX推進派も抵抗勢力もその企業からいなくなる。
かくのごとしで、愛にあふれた日本企業と野心にあふれた米国企業では、DXに対するノリが違う。というか、自分がよって立つところを会社に求める人の集団と、自分のスキルや能力に求める人の集団の違いと言ったほうがよいかもしれない。米国企業でもDXに失敗する例は多いが、終身雇用で会社愛にあふれた日本企業にとって、何らかの犠牲を伴う変革はとてつもなく難しい。
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