マヤ文明は、屈指の影響力を持っていたとされる近隣のオルメカ文明と並行して発展し、互いにアイデアを交換していたようだ。マヤ人が宗教施設の建設に乗り出したのも、この頃と考えられている。マヤ人はやがてオルメカ人と同様に、宗教施設の周囲に都市の建設を始めた。このように農業と都市開発が発展した時期は、マヤ文明の先古典期のうち紀元前1500〜前200年の間だったことが明らかになっている。(参考記事:「マヤ史上最大の遺跡を発見、浮かび上がる謎」)
マヤ人は社会をさらに発展させるなかで、複雑な貿易ネットワーク、高度な灌漑(かんがい)・浄水・農業技術、戦争、スポーツ、文学、複雑な暦などの基礎を築いた。暦は3種類の暦法が使用される難解なものだった。ひとつは神の儀式に用いる暦、もうひとつは人々の生活に用いる暦、そして3つめが「長期暦」と呼ばれる非常に長い周期をもつ暦だ。
この長期暦の開始日は伝説上の人間創造の日とされ、紀元前3114年8月11日に相当する。長期暦については、周期が終わる2012年12月21日に世界が終末を迎えるといううわさが生まれた(都市伝説とマヤの言い伝えに対する昔からの誤解によるものだが、もちろん実際には、この世の終わりは訪れなかった)。(参考記事:「終末思想とマヤ文明の崩壊」)
マヤ社会の絶頂期
マヤ文明が絶頂期に達した古典期(200~900年)には、優れた建造物も生まれた。ピラミッド形の寺院や、宮殿らしき壮麗な建築物はさらに洗練されたが、それらが実際に権力者の住居だったのか、その他の用途に使用されたのかはわかっていない。
マヤ文明の主要な都市として、パレンケ、チチェンイツァ、ティカル、コパン、カラクムルが挙げられる。マヤ文明はひとつの社会を形成していたが、帝国ではなかった。都市国家や地方の権力者たちは、互いに平和的な共存か支配を巡る戦いかで揺れ動いた。なかにはホヤ・デ・セレン村のように、権力者による支配ではなく、共同体による統治が行われていたと考えられる場所もある。(参考記事:「マヤの首都に異なる文明の「飛び地」を発見、謎深まる」)

マヤの建築と芸術には、人々の心に深く根差した信仰が反映されている。マヤの人々は、神「クフ」(K’uh)や神聖さ「クフル」(k’uhul)への信仰を持ち、無生物を含むあらゆるものに神が存在すると考えていた。トウモロコシは、こうした信仰にも不可欠だった。マヤの神で特に重要なのが、トウモロコシの神「フン・フナフプ」だ。マヤの言い伝えでは、神々は最初に泥から、次に木から、次いでトウモロコシから人間を作ったとされている。
マヤの人々は、さまざまな儀式を行って神を崇拝した。現代人の心をとらえる人身御供や流血を伴う儀式もあった。サッカーの原型とも言える「ピッツ」というスポーツにも宗教的な意味合いがあった。マヤの創世神話「ポポル・ウフ」でピッツを楽しんだとされる太陽の神と月の神をたたえるために、試合の敗者がいけにえとして殺害されることもあったと考えられている。(参考記事:「ケルトやオルメカなど、驚きの遺産を残した謎多き古代の人々 5選」)
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