トーマス・エジソンは映画用のカメラやマイク、蓄音機など、革命的な機器の発明を手掛けた。しかし、世界中の家庭に光をもたらした電球の改良ほど有名な偉業はない。(PHOTOGRAPH BY GEORGE PICKOW, THREE LIONS/GETTY IMAGES)
トーマス・エジソンは映画用のカメラやマイク、蓄音機など、革命的な機器の発明を手掛けた。しかし、世界中の家庭に光をもたらした電球の改良ほど有名な偉業はない。(PHOTOGRAPH BY GEORGE PICKOW, THREE LIONS/GETTY IMAGES)

 こぼした化学薬品、列車内の火災…。トーマス・アルバ・エジソンが若いころに失業した理由のリストは、後に取得した特許のリストと同じくらい長い。

 この将来の発明家は、自身を解雇したさまざまな業界の流れを変えるアイデアを持っていた。が、1931年にニューヨーク・タイムズ紙に掲載された追悼記事によれば、「仕事が続かない(電信)係として有名だった」

 今では誰もが知るように、エジソンはその後、伝説的な応用力と「天才は1%のひらめきと99%の努力」という言葉で有名になった。エジソンは現代世界を定義する機器を発明し、画期的なイノベーションを完成へと導いた。例えば、エジソンが電球を改良したことで、世界中の家庭が電灯で照らされるようになった。

 エジソンはどのように「メンロパークの魔術師」と呼ばれるまでになったのだろう? なぜ今でも史上最高の発明家の一人と言われているのだろう?

好奇心旺盛な青年時代

 トーマス・アルバ・エジソンは1847年に米国オハイオ州で生まれ、ミシガン州ポートヒューロンで幼少期を過ごした。正式な学校教育は少ししか受けていない。教員だった母親が7歳から自宅で教育し、エジソンは幅広い分野の本を読んだ。自宅の地下室で野心的な化学実験を行ったこともあり、伝記には「爆発寸前、大惨事寸前」の実験だったと書かれている。

14歳ごろに撮影されたトーマス・アルバ・エジソン。若きエジソンは革命的なアイデアの持ち主だったが、そのせいで、しばしば日々の仕事をおろそかにしていた。(PHOTOGRAPH VIA NATIONAL PARK SERVICE)
14歳ごろに撮影されたトーマス・アルバ・エジソン。若きエジソンは革命的なアイデアの持ち主だったが、そのせいで、しばしば日々の仕事をおろそかにしていた。(PHOTOGRAPH VIA NATIONAL PARK SERVICE)

 好奇心と起業家精神にあふれるエジソンは12歳で「ニュースブッチャー」の仕事に就いた。列車内で軽食や新聞を売り歩く鉄道会社の売り子だ。エジソンはモノを売るだけでは飽き足らず、世界初の列車内で制作・印刷した新聞「Grand Trunk Herald」を創刊した。列車内で化学実験を行うこともあった。

 業務中に頭の中で実験や発明に没頭しては勤め先をクビになることを繰り返していたエジソンは、15歳の頃からウエスタンユニオンの電信係として各地を飛び回るようになり、その後、ニューヨークで研究室を設立した。少年時代に身に付けた電信技術は、初期の特許発明の多くにインスピレーションを与えることになる。1874年、エジソンは27歳で四重電信機を発明した。4つのメッセージを同時に送ることができ、新たな電信線を引く必要がないため、業界の効率アップが実現した。

「私の光は完璧になった」

 エジソンは従業員のメアリー・スティルウェルと結婚し、1876年、ニュージャージー州メンロパークに引っ越した。当時のメンロパークは田舎で、発明家であり起業家でもあるエジソンの精神を反映した新しい研究室に最適な場所だった。エジソンと「悪友」が思い付くままに何でもつくることができる研究開発施設だ。

 エジソンは電信機の改良を続け、メッセージを記録する機械に取り組んでいるとき、メッセージだけでなく音も記録できないかと考えるようになった。そして、音声が生み出す振動を紙に刻む機械を開発した。

 1877年、30歳になったエジソンは「メリーさんの羊」の最初の2行をこの機械に録音し、手回しで再生してみせた。これが「エジソンのものを言う蓄音機」だ。エジソンは同年、マイクの改良版も開発し、電話機の進歩に貢献した。(参考記事:「多機能電話、エジソンが予測した未来」

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