米ソ冷戦時代は、表向きは平和であったものの、核兵器の保有量をめぐって緊張が高まっていた時代だった。 (PHOTOGRAPH VIA GETTY IMAGES)
米ソ冷戦時代は、表向きは平和であったものの、核兵器の保有量をめぐって緊張が高まっていた時代だった。 (PHOTOGRAPH VIA GETTY IMAGES)

 1945年の夏、第二次世界大戦における連合国側である米国、ソ連、英国の首脳がドイツのポツダムに集まり、この史上最も血生臭い戦争の終結に向けて話し合った。ドイツを分割して占領統治し、ソ連の支援を受けたポーランド政府を認め、さらにベトナムを分割するという、戦後の世界秩序を左右する重大な決断が下された。

1945年のポツダム会談に出席したスターリン、トルーマン、クレメント・アトリー英首相。 (PHOTOGRAPHS VIA CORBIS, GETTY IMAGES)
1945年のポツダム会談に出席したスターリン、トルーマン、クレメント・アトリー英首相。 (PHOTOGRAPHS VIA CORBIS, GETTY IMAGES)

 ポツダム会談で最も重要な出来事の1つは、覚書として残されることも、記者会見で語られることもなかった。会議の後半、ハリー・トルーマン米大統領がソ連のスターリン首相をそばに呼び、ある衝撃的なニュースを伝えたのだ。米国は「異常な破壊力を持つ兵器」の実験に成功した、と。(参考記事:「人類初の原爆実験、「核の時代」こうして始まった」

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1945年のポツダム会談で撮影された写真の裏面に、ハリー・トルーマン米大統領のメモが。「私はスターリンに、史上最強の爆弾を日本に投下する予定だと伝えた。彼は微笑みながら、教えてくれて感謝すると言った。だが、彼には私が何のことを言っているのか分からなかったのだ。そう、原爆のことだ!」(PHOTOGRAPHS VIA CORBIS, GETTY IMAGES)

 数週間後、米国は原爆を使用して日本を降伏させた。核兵器の破滅的な力を実証した米国は、戦争で同盟関係にあった列強の中で突然優位に立った。そして、わずか1年半後には、米国とソ連という2つの超大国の危険な覇権争いが始まり、ソ連が崩壊する1991年まで40年以上も続くことになる。(参考記事:「あの日から75年 広島の記憶」

 両国は表向きは平和な関係にあったものの、莫大な費用をかけた急速な軍拡競争や、南米、アフリカ、アジアでの代理戦争、そして米国主導の資本主義陣営とソ連主導の共産主義圏の間で、世界的な支配をかけた競争が繰り広げられた。

 半世紀近くも続いた冷戦はなぜ始まり、どのようにエスカレートしていったのか。今日の世界に何を遺したのか。そして、新たな冷戦がすでに進行していると考える専門家たちがいる理由を見ていこう。

なぜ「冷戦」と呼ばれたのか?

「冷戦」という言葉は、欧州諸国間の関係が険悪になっていく様子を表現するためにフランスで「ゲール・フロワ(冷たい戦争)」という表現が使われていた1930年代から存在した。その後、1945年に米国が広島と長崎に原爆を投下した直後、英国の作家ジョージ・オーウェルが、原爆が国際関係において何を意味するかを探るエッセイの中で、冷戦という言葉を使った。(参考記事:「米国は第3の原爆投下を計画していた」

 原爆は10万人を超える民間の日本人の命を奪った。あまりに恐ろしいその破壊力は、大国間の戦争を抑制する代わりに「征服不可能であると同時に、近隣諸国と永久に『冷戦』状態にある国家」を作り出すだろう、とオーウェルが予測するほどだった。

 かつて同盟国だった米ソの間に不信の種が育つにつれて、オーウェルが予言した「平和でない平和」は現実となった。

冷戦はどのように始まった?

 ソ連は第二次世界大戦でナチス・ドイツと激戦を繰り広げ、 軍人・民間人合わせて推定2400万人という最も多くの犠牲者を出した国だ。指導者スターリンは、こうしたソ連の貢献を反映していないとして、戦後の欧州分割に不満を抱いた。

 米国では、外交官ジョージ・ケナンが、1946年にソ連外交を分析した「長文電報」で、ソ連への不信感を表した。ケナンは、ソ連が非論理的で不安定であり、長期的に西側と協力することはないだろうと警告した。これを受けて、米国はソ連のイデオロギーと影響力の拡大を防ぐために「封じ込め」政策を取り始める。

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