北極探検からの帰路、氷に閉じ込められたポラリス号。ウィリアム・ブラッドフォードによる1875年の油彩画。(TAUBMAN MUSEUM OF ART, ROANOKE, VIRIGINIA)
北極探検からの帰路、氷に閉じ込められたポラリス号。ウィリアム・ブラッドフォードによる1875年の油彩画。(TAUBMAN MUSEUM OF ART, ROANOKE, VIRIGINIA)
[画像のクリックで拡大表示]

 1845年、英国の海軍将校ジョン・フランクリン卿が率いる探検隊が、大西洋と太平洋を結ぶ北極海航路「北西航路」の開拓をめざして出航した。しかし、この北極探検は悲劇の結末を迎え、2隻の船と129人の乗組員の命が失われた。19世紀半ば以降、このフランクリン隊の悲劇の謎を解き明かそうと、多くの米国人や英国人の探検隊が現地へ向かった。(参考記事:「133人はなぜ北極に消えたのか、調査は今なお続く」

 チャールズ・フランシス・ホールも、そうした探検家の1人だった。「ホールはかなりの変人で、北極探検家になるには最も不適当な人物でした」と、米ロードアイランド大学のラッセル・A・ポッター教授は言う。ほとんど教育を受けなかったホールは、米国オハイオ州シンシナティで彫版師や出版業者としてささやかな成功をおさめていた。しかし、彼はフランクリン遠征に強い興味を抱き、それは次第に北極への執着と生存者を見つけるという個人的な使命感へと変わっていった。(参考記事:「19世紀に消えた北極探検船テラー号ついに発見」

 1850年代後半には、すでにさまざまな探検隊がフランクリン遠征の乗組員の遺体や遺品を発見し、生存者発見の希望は薄れつつあった。しかしホールは、生存者の救出を目的に掲げ、1860年に北極に向けて出発した。39歳のときのことだ。(参考記事:「19世紀に北極海に沈んだ探検船の内部が明らかに」

ポラリス号の出港

 ホールは1860年代に2度、北極遠征を行った。フランクリン隊の生存者を見つけることはできなかったが、イヌイットの人々と8年近く生活を共にし、その文化をかつてないほど詳細に記録した。

1860年から1862年にかけての最初の北極遠征で、イヌイットと並んで立つホールを描いたイラスト。(BRITISH LIBRARY/ALBUM)
1860年から1862年にかけての最初の北極遠征で、イヌイットと並んで立つホールを描いたイラスト。(BRITISH LIBRARY/ALBUM)
[画像のクリックで拡大表示]

 その間、北極探検家たちの最大の目標は、北西航路の開拓から北極点到達へと変わっていた。北西航路は、開拓のための費用を除いたとしても、商業的な航路にはなり得ないと考える人が増えていたからだ。1869年にワシントンD.C.に戻ってきたホールも北極点到達を目指すようになり、猛烈なロビー活動をして、ユリシーズ・S・グラント米大統領の支援を得た。

 議会はホールのために5万ドルの支出を承認、連邦政府が全額出資する初の北極遠征計画が立ち上がった。船は、南北戦争で北軍が使ったものを北極海航海用に改造した「U.S.S.ポラリス」で、船体はオーク材で補強され、船首は鉄板で覆われた。1871年6月29日、ポラリス号はニューヨークから出港した。乗組員は、イヌイットのガイドであるイピルビクとその妻タクリトゥク、彼らの幼い息子など25人だった。さらにグリーンランドで、イヌイットのガイド兼猟師のハンス・ヘンドリックとその家族が加わった。

船上の権力闘争

 ホールは、北極圏でのサバイバル術は知っていたものの、これほど本格的な探検は初めてだった。彼は軍人ではない指揮官であり、航海の経験のない船長だった。結局、シドニー・O・バディントンが航海長、ジョージ・E・タイソンが副航海長となり、指揮系統は3つに分かれた。

次ページ 突然の死