「自分らしく生きる」を目指す社会からこぼれ落ちる絶望

──「すべての人は自分の人生を自分で選び取り、自分らしく生きるべきだ」という、一見良いことに思えるリベラルな価値観の広まりが、一方で「自分らしく生きられない」と苦悩する人を急激に増やしている。本書の柱になっているこの構想は、どのように固まっていったのでしょう。

 今はSNSを開けば、ビヨンセやレディー・ガガ、マイケル・ジョーダンといった有名人たちが、「自分らしく生きて夢をかなえなさい」「人と違っていてもいい、あなたらしく生きていけばいい」という強いメッセージを送ってくる時代です。しかし、彼らのように成功できる人など、現実にはほとんどいない。「強く願えば夢はかなう」と信じて、かなわなかった人たちはどうなってしまうのか。一方で、こうしたリベラルな価値観は、既に確固としたものになっているため、もはや誰も否定できなくなっている。

 歴史的には、「自分の人生は自分で決める」「すべての人が自分らしく生きられる社会を目指すべきだ」という思想は、1960年代の米国西海岸のヒッピーカルチャーの中から生まれて、10年もたたずに世界中の若者をとりこにしました。これは、キリスト教やイスラームの誕生に匹敵する人類史的出来事です。この新しい価値観のもとでは、すべての子供に夢を持たせて、その実現に向かって頑張らせなければならない。でも、「夢なんてない。どうすればいい?」「頑張っても実現できなかったら?」と聞く子供に対して、どんな答えが返せるでしょう。

 そんな理不尽な価値観の押し付けに対し、社会の底辺から様々な異議申し立てが出てきました。露骨に表れたのが男性の「性愛格差(モテ/非モテ)」で、日本では自分の父親世代まではほぼ100%結婚できていたのに、あっという間に婚姻率が5~6割にまで下がってしまった。データを見ると、それでも年収600万円以上なら恋人がいる割合はほぼ100%ですが、200万円以下の若い男性では3割程度にすぎません。

 マジョリティーの中から現れた脱落者たちの存在は、米国では白人至上主義が台頭する背景にもなっています。白人男性という「高い下駄」を履いているにもかかわらず、自分たちは底辺の生活を強いられている、「差別」されていると不満を漏らせば、過去の奴隷制(黒人差別)の歴史を引き合いに出されて、エリートのリベラルから批判されバカにされるだけです。こうして憎悪と絶望を募らせていくことになる。

 前近代的な身分制社会の残滓が色濃く残る日本では、男はそもそも男であるというだけで優位性を持っています。学校では男女平等でも、企業に入れば男性優位が明らかで、労働組合やリベラルな主張をするメディアですら、社長や役員は男ばかり。そんな中で、「ボクはモテません」なんて不満を言えば、それこそずっと「無理ゲー」を強いられてきた女性たちから、何を泣き言を言っているのかと批判され、フェミニズムへの憎悪が膨らんでいく。