1914年6月末、ハプスブルク家の皇太子夫妻がサラエボでセルビア人に暗殺された。当時ここはオーストリア領だったので、7月末、オーストリア=ハンガリー二重帝国はセルビアに宣戦布告。
かくして第一次世界大戦の火蓋が切られた……わけだが、まだ「第一次世界大戦」という名称は生まれていない。バルカン半島での事件が世界規模の戦争になると予想した者はほとんどいなかったし、ましてや一度で終わらず二度も世界大戦を起こすほど人類が愚かだとも想像しなかったのだろう。従ってこの歴史用語が定着するのは、第二次世界大戦が勃発した1939年以降だ。それまでは「欧州戦争」や「大戦争」と呼ばれていた。
もともと各国が火種を抱えていたので、入り乱れての参戦はかなり早い。セルビアを裏から支援していたロシアがまずオーストリアに宣戦布告し、同盟国フランスも続く。すかさずオーストリアの同盟国ドイツが露仏に宣戦布告して、中立国ベルギーに侵入。今度はそれに反撥したイギリスがドイツに宣戦布告。
不思議なのは、なぜかどの国もクリスマス前には決着がついて、勝つのは自分たち、と信じていたこと。「パリへのハイキング」とペンキで書いた軍用列車に乗り、朗らかに手をふるドイツ兵たちの写真が今に残っている。同じようにフランス側も「ベルリン近し」というような合言葉を唱えていた。
ここまでは確かに「欧州戦争」だったが、連鎖は止まらず、それぞれの植民地へも飛び火したのみならず、トルコ、イタリア、日本、さらにはアメリカまで参戦し、前代未聞の「総力戦」は4年も続くことになった。急速に発達してきた科学技術が、戦地をそれまで見たこともない地獄に変えた。騎馬戦や塹壕(ざんごう)戦など伝統的な戦法と並行し、飛行機や潜水艦といった三次元の武器、戦車や毒ガスという新しい武器、殺傷能力の格段に上がった銃器が、一般市民までも巻き込んだ。
ヨーロッパで活躍したアメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェント(1856~1925)はイギリスの従軍画家として戦場へ赴き、その目で見た衝撃的光景を約2.3×6.1メートルの大画面に描いた。タイトルは『ガス』。すでに写真の時代ではあったが、絵画表現ならではの生々しい恐怖が伝わる。
ここは1918年夏の西部戦線(絵の完成は翌年)。白い夕陽が沈む中、ドイツ軍のマスタード・ガス攻撃によって目が見えなくなったイギリス兵たちが、衛生兵に導かれながら板を並べた道を10人ずつ1列になって進んでゆく。ころばないように皆、前を行く者の肩や背嚢(はいのう)をつかみ、おぼつかない足取りだ。段差のある個所では大きく脚を上げる者もいる。後尾から4人目の兵はこちらに背を向け、嘔吐(おうと)中だ。すぐ後ろの兵が、彼の胴体に腕をまわして支えてやる。
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