グスタフ・アドルフ戦死の二年後、ヴァレンシュタインも五十歳で命を落とす。ドイツの歴史画家カール・フォン・ピロティ(1826~1886)が、『ヴァレンシュタインの暗殺』を取り上げた。

カール・フォン・ピロティ『ヴァレンシュタインの暗殺』Seni in front of the corpse of Wallenstein(1855)(提供:Artothek/アフロ)
カール・フォン・ピロティ『ヴァレンシュタインの暗殺』Seni in front of the corpse of Wallenstein(1855)(提供:Artothek/アフロ)
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 本作の正式タイトルは、『ヴァレンシュタインの遺骸を前にしたセニ』。

 セニ(=ジャン・バティスタ・ゼンノ)はヴァレンシュタインお抱えの占星術師(そういう時代だった)。帽子を両手できつく握りしめ、雇い主の死体を見下ろすセニは、言い伝えによれば、再三ヴァレンシュタインに一六三四年は凶星が見えるから気をつけよ、と忠告していた由。一方で、だがセニ自身が暗殺に関与したとの噂もある。複雑なこの表情はいったい何を語るのか、判断は観る者にまかされる。

 ここはヴァレンシュタインの居城。彼は艶やかな絹のテーブルクロスを引っ張りつつ倒れたようだ。細身の剣で突き刺され、胸と腹にかすかに血がにじむ。右手に指輪、テーブル上には華やかなロウソク台、書籍、宝石箱、そして占星用球儀(サソリ座や獅子座などが見える)。豪勢な生活ぶりだ。傭兵に対しては一般的に「報酬の多寡でどちらの陣営にもつく命知らずの流れ者」というイメージが強いので、傭兵隊長もまた粗野な戦争請負人と思われがちだが、そしてそういう例も確かに多かったが、ヴァレンシュタインは少し違う。

 ――ボヘミアの貧しい小貴族の息子アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインは、両親の信仰に倣って最初はプロテスタントだったが、後にカトリックに改宗して神聖ローマ帝国軍に加わる。先述したボヘミアの反乱を手際よく鎮圧し、ついでに反乱者たちの領土財産を奪って富み、出世もした(最終的には公爵となる)。

 ここからがさらに凄いのだが、ヴァレンシュタインは皇帝の許可を得て自軍も持つ。三万もの傭兵を集めて傭兵隊長となったのだ。その上で皇帝軍の総司令官に任じられた。こんな形を皇帝がよく容認したと思うが、それほどヴァレンシュタインの手腕は傑出していたのだ。

 自軍の傭兵を無駄死にさせないアイディアも生み出した。まず彼らにはいっさいの略奪行為を禁止して高給を支払った。その軍資金の出どころは、各駐屯地の都市や町。敵軍から護ってやるかわり「免除税」を払え、と交渉したのだ。まるで暴力団のみかじめ料のようだが、実際に敵を寄せ付けなかったので感謝された。ただし諸侯や他の軍人らからは憎まれ、皇帝は力をつけすぎた臣下に危機感を持ち始めた。十年ほどたち、戦争が一段落しそうになると、ヴァレンシュタインは追放された。

 ところが二年足らずのうちに戦況が変わり始める。グスタフ・アドルフの参戦により、皇帝軍は敗色濃厚となったのだ。皇帝はヴァレンシュタインに復職を懇願し、秘密裡に大きな見返りも約束したらしい。リュッツェンの戦いはその翌年。戦は敗けたが、グスタフ・アドルフを斃したので、皇帝にとっては勝利も同じ。もうヴァレンシュタインは不要だ。見返りも惜しい。こうして刺客が放たれたとされている。

 とはいえリュッツェン戦後のヴァレンシュタインの動きも謎が多い。スウェーデンとの本格的戦争を避け、独断で和解工作をしていたようだ。ボヘミア王位を狙っていた疑惑もある。またカトリックとは名ばかりで、プロテスタントを捨てていなかったとも囁かれている(フランスのアンリ四世の例を見れば十分有り得る)。皇帝ばかりかボヘミア貴族やローマ教皇までも敵にまわした野心家の帰結がこれだった。

 名傭兵隊長暗殺後、フランスが大々的に介入。三十年の戦が終わってみれば、勝ったのはブルボン家、敗けたのはハプスブルク家、最大の被害者はドイツの一般大衆と言えた。

 この時代はまだ傭兵が軍の要だ(グスタフ・アドルフでさえ兵の不足を傭兵で補っていた)。ヴァレンシュタインは厳しく禁じたが、他の傭兵隊長はある程度まで略奪行為を黙認せざるを得なかった。そもそも傭兵の賃金は安いので、命を張って戦うかわり略奪行為で一儲けしたがる(現代の傭兵とは異なる)。あまり厳しく取り締まると、略奪黙認の隊へ移ってしまう。

 敵の財産を奪うことに罪悪感はない。そこへさらに宗教がからむと、敵を悪魔と見做した残虐行為はエスカレートする。教会や修道院が襲われ、放火され、司祭が虐殺され、修道女が凌辱されたのはそのためだ。