ルターの宗教改革からおよそ百年後の一六一八年、ハプスブルク家が支配する神聖ローマ皇帝領の一部ボヘミア(現チェコ)で事件が起こる。カトリックが強制され、プロテスタント教会も閉鎖されたため、憤激したボヘミア貴族数人がプラハ城へ乗り込んで官吏三人を二階の窓から放り投げたのだ。
三人は怪我だけで済んだが、話はそれで終わらず、一直線に内乱へと突き進む。まさかこの内乱が宗教戦争となり、後半は宗教から離れた国際紛争に変じて通算三十年も続くとは、当初誰も予想していなかったろう。拡大・長期化の理由は、ここぞとばかり各国が私利私欲をむき出しにして介入したことによる。
カトリック側はスペインを含む神聖ローマ帝国の他に、カトリック連盟(ドイツ南部に多い)、デンマーク=ノルウェー、クロアチアなど。プロテスタント側はドイツのプロテスタント諸侯国、スウェーデン、オランダ、そしてオスマン帝国(!)。
さらには何とフランスが――カトリック国でありながら国益優先(ブルボン家としてはハプスブルク家を弱体化させたい)とばかり――プロテスタント側についたのだから驚きだ。
主戦場となったドイツは町も村も無残に荒廃し、終戦後の人口は半減ないし三分の一減(中世のペスト禍なみ)、経済は停滞し、後進性は定着し、プロイセンにフリードリヒ大王が登場するまで、無数の弱小国の寄せ集まりのまま大国の草刈り場状態になった。
三十年戦争は、二人の歴史的スターのドラマでも知られる。スウェーデンのグスタフ・アドルフと神聖ローマ帝国軍を率いたアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインだ。前者は「北欧の獅子」の異名をとるスウェーデン国王(正式名グスタフ二世アドルフ)、後者はボヘミア出身の傭兵隊長。彼らの最期も、それぞれ絵画化されている。
まずはグスタフ・アドルフ。
十九世紀のスウェーデン人画家ヨハン・ヴィルヘルム・カール・ウォールボム(1810~1858)が描いた戦争画『リュッツェンの戦い』を見てみよう。
リュッツェンはドイツのライプツィヒ近郊の戦場。ここでグスタフ率いるプロテスタント軍と、ヴァレンシュタイン率いるカトリック軍が、それぞれ六万の兵を従えて激突した。一六三二年の晩秋で、深い霧が降りていた。
画面にはその霧の濃さとともに、軍馬の群れがたてる土煙も描かれている。見通しの悪い中での近接した白兵戦。運命の銃弾が鳴り響く。一瞬、霧が割れ、青空が少し覗くと、目に飛び込んできたのがこの場面、というのが画家の狙いだ。
中央でグスタフは絶命している。眉間に血。小銃の弾を打ち込まれたのだ。馬が後ろ脚立ちになっており、軍靴が鐙(あぶみ)に引っかかっていなければ振り落とされていただろう。隣を疾駆していた側近が辛うじて王の肩を支え、右手の剣で敵の小銃を払おうとする。もう一人の側近が近づいてきたので、画面右下の男と違い、王の首が敵に取られることはあるまい。
結局、ごく少数の者をのぞいて敵も味方もグスタフの死を知らぬまま交戦は続き、リュッツェン戦はスウェーデンの大勝に終わる。だが肝心の王を失っては、本当の勝利とは呼べない。以後スウェーデンはこれまでのように三十年戦争を牽引することはできなくなってゆく。
――グスタフ・アドルフは幼いころから父王に期待され、十歳にして国政会議や軍事訓練に参加した。十六歳で王冠をかぶると、武器工場を建てて火器を改良、他国に先駆けて徴兵による常備軍を中心に軍制を敷き、厳しい規律を設けた。ヨーロッパ最強と言われたその国民軍を率いて、デンマーク、ロシア、ポーランドと戦って連戦連勝を挙げ、ハプスブルク家の北上を阻止するとの名目で三十年戦争に参戦、ドイツに進撃したのだった。
戦場で常に先頭を走った勇猛な王が、白い闇を切り裂いて飛んできた銃弾に斃れた時、まだ三十七歳。あと二十年、いや、十年でも長生きしていれば、バルト海を中心とした一大帝国を建設するという彼の野望は叶ったかもしれない。もしそうなっていたら、ヨーロッパ地図は今とは全く別物になっていただろう。
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