『叫び』で有名なノルウェー人画家エドヴァルド・ムンク(1863~1944)の『病める子』は、結核を描いた作品だ。

ずいぶん前のことになるが、筆者はスウェーデンで開催されたムンク展でこの絵を見た。実物より前にまず、美術館の入り口の巨大な布看板として見た。風の強い、粉雪の舞う寒い日で、絵の少女は微かに揺れ、今にも背に翼を生やして飛んでゆきそうに思えた。
この悲痛さ、美しさは、結核を我が事とする画家の切ない眼差しからきている。病床の蒼白い頬の少女は、15歳で亡くなったムンクの最愛の姉なのだ。母親も同じ結核でとうに先立っていたから、2歳しか違わない姉がずっと彼の母代わりだった。母を二度も亡くす喪失感に直面した少年ムンクに、この場面は生涯忘れ得ぬ強烈な印象として残る(本作制作は姉の死からほぼ10年後)。
画中で付き添うのは母方の叔母だ。彼女は姪の死を予感し、絶望に圧倒されて顔を上げることすらできない。むせび泣いているのかもしれない。慰めるのは少女のほうだ。慈愛に満ちた目で叔母を包む。この世を去る覚悟のついた少女は、天使になりつつある……。
医者の父は娘の死後、狂気に近い信仰心に囚われ、妹は精神科病院に入れられた。ムンクは書いている、病と狂気と死が生涯にわたって私につきまとった、と。
もともと虚弱だった彼は、自分も結核に侵されているのではと恐れ続けた。当時、結核を遺伝性と考える人が多かったのは、家庭内での感染が多かったせいだ。幸いながらムンクは――元愛人からピストルで指を吹き飛ばされたり、スペイン風邪に罹患したり、精神科病院に入院したりと、いろいろあったものの――80歳という長寿を全うした。
肺結核患者は太古から存在し、エジプトのミイラにもその痕跡が見られる。日本における古称は「癆咳(ろうがい)」。痩せ衰えるという意味の「癆」と「咳(せき)」の組み合わせが結核のイメージだったとわかる。
結核菌は飛沫にのって空気中に拡散し、それを吸い込むことで肺に入る。初期は咳、痰、微熱、だるさといった風邪症状だが、悪化すると血痰や喀血、肺の空洞も大きくなって最後は呼吸困難に陥り、死に至る。コレラなどのような急性感染症ではなく、長い闘病の末に亡くなる例が多いので、死者数のわりには集団パニックを起こしにくい。何より「人にうつす病気」という認識はなく、あくまで個人的範囲に留まっていた。
ところが18世紀後半、産業革命の時代を迎え、大流行が誰の目にもありありと見え始めてから、いや、正確に言えば、中・上流層にも流行しだしてから、この病にスポットライトが当たるようになった。時流のロマン主義と結びついて美化され、神話化されたのだ。罹患者の肌を抜けるように白くし、頬を薔薇色に染め、瞳を潤ませ、性欲を増進させ、けだるい動作をとらせる症状も、この神話に貢献したであろう。おかげで結核化粧なるものまであらわれた(ジョゼフィーヌがこの化粧をし、ナポレオンの不興を買ったことが知られている)。
そして結核は、凡人よりむしろ美しい繊細な女性や才能ある若き芸術家を狙い撃ちすると信じられた。確かに多くの芸術家の命を奪ったのは間違いない。列挙してみよう。( )内は死去した時の年齢。
詩人・作家;キーツ(25)、正岡子規(34)、カフカ(40)、チェーホフ(44)、シラー(45)、オーウェル(46)
画家;ビアズリー(25)、青木繁(28)、ジェリコー(32)、モディリアーニ(35)、ヴァトー(36)
音楽家;瀧廉太郎(23)、ベッリーニ(33)、ヴェーバー(39)、ショパン(39)etc.
ロマン主義に浸る当時の頑健な芸術家が、胸を病む芸術家に向けた視線の例を2つあげておきたい。ドイツを追われたユダヤ人の詩人ハイネは、パリ社交界でもてはやされていたイタリア人作曲家ベッリーニと出会い、彼が人気を得るため結核を装っていると邪推し、君はもうじき死ぬぞ、と何度も意地悪くからかって喜んでいた(ほんとうに末期にきていたベッリーニはまもなく死去)。一方、若き日のヴァーグナーはヴェーバーの『魔弾の射手』に熱狂し、結核による彼のスリムな姿を高貴さと結び付けて憧れた。
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