もう一点見よう。

 ジャガイモ飢饉時のアイルランド人には天国に見えていたかもしれないが、イギリスの都会にも貧しさに喘ぐ人々がおおぜいひしめいていた。階級格差が著しい上に、各地から難民が流入して貧民街が拡大していた(ホガース作『ジン横丁』を思い出されたし)。そこへさらに、飢饉から脱出してきたアイルランド人が加わったとなると、玉突きではないが、今度はイギリスを出てゆく者が増える道理だ。1840年代に年間9万人だった移民は、1850年代になると28万人に増えている。

 もっともこれはジャガイモ飢饉のせいばかりではなく、ちょうどこの頃からアメリカとオーストラリアがゴールドラッシュで沸きだしたことも大きい。祖国で行き倒れになるよりは、一攫千金の夢に賭けて移民船に乗ったほうがいい!

 イギリス人画家フォード・マドックス・ブラウン(1821~1893)作『イギリスの見納め』にも、画面奥の救命ボートに「エルドラド(黄金郷)」の文字が記されている。若い夫婦の目的地はそこだ。

フォード・マドックス・ブラウン『イギリスの見納め』The Last of England(1852)(写真提供:ALBUM/アフロ)
フォード・マドックス・ブラウン『イギリスの見納め』The Last of England(1852)(写真提供:ALBUM/アフロ)
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 本作はイギリス人の偏愛絵画である。祖国との別れに万感迫る表情の2人は、激しい波しぶきを傘で防ぎながら、新天地への期待と不安に慄いている。慄きながらも妻は夫より覚悟を決めているようだ。黒い手袋をはめた右手で、励ますように彼の手を握りしめる。

 女は強い?

 いや、母だから強いのだ。

 この絵にはミステリ好きのイギリスらしい、謎や伏線や意外性が隠されている。まず外枠のこの丸い形式はトンドと言い、ルネサンス時代によく聖画に使われた。ラファエロの聖母子像やミケランジェロの聖家族像を知らぬ者はいない。であれば、本作もまたトンドであり、聖画なのだ。

 この夫婦が聖なる存在?

 そうだ。なぜならマントの合わせ目から見える彼女の左手に注目。その左手がやさしく包みこんでいるのは、小さな小さな手! 

 マントの中に赤子がいる。そう気づいた瞬間、マントにくるまれた赤子の形がありありと浮かび上がってくる。トンドに描かれた3人家族。これはもうヨセフと聖母マリアと幼子イエスをおいて他にない。

 本作を鑑賞する現代イギリス人は、ジャガイモ飢饉と移民政策とゴールドラッシュという歴史を思い起こすとともに、新天地へ向かった自分たちの祖先の勇気に神々しさをも感じるのだろう。

この記事はシリーズ「中野京子の「災厄の絵画史」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。