アイルランドの近世史はイギリス支配の歴史と言っても過言ではない。1649年にクロムウェルが清教徒革命で実権を握ると、カトリック国アイルランドはプロテスタント国イギリスの植民地となった。宗教的に迫害され、多くの土地も簒奪(さんだつ)された。以後アイルランド人は、海の向こうに住むイギリス人の不在地主から土地を借りる小作人や小農として、搾取され続ける。
『ガリバー旅行記』で有名なイギリス系アイルランド人作家ジョナサン・スウィフトは、アイルランドの自由と独立を唱えてペンで戦ったが、1729年には、『アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案』と題する諷刺文書を発表している。この内容が何とも驚くべきもので、曰く――
「ロンドンで知り合いになった大層物知りのアメリカ人がはっきり言ったことだが、ちゃんと育てられた健康な子供は、一歳の時が、極めて美味で滋養に富み、健康によい食べ物で、シチューによく、炙ってよく、焼いてよく、煮てよいそうである。」
「私はすでに、乞食の子供(この中に、小作人、労働者、及び自作農の5分の4を入れて考える)ひとりの養育費は衣服も入れて年額約2シリングと計算した。よく肥えた子供の屍体に10シリング出ししぶる紳士はよもやあるまい」(山本和平訳)
要するに子供を金持ちの食肉として差し出せば貧困問題は解決するという、グロテスクでブラックなジョークにまぶした痛烈な告発だ。さすがガリバーの作者だけあると苦笑いしたいところだが、ソ連時代の凄惨なウクライナ飢餓の実態を知った今となっては、むしろそのリアリティに背筋が凍るようだ。
いずれにせよ、スウィフトの怒りにイギリスがさして痛痒を感じなかったことは、およそ1世紀後の1845年から5年続いた、19世紀ヨーロッパ最悪の大飢饉、いわゆる「ジャガイモ飢饉」において明らかになる。
ジャガイモは、コロンブスによって南米からもたらされた比較的新しい食材で、痩せた土地でも育ち、栄養価が高く、保存もきくため、「貧民のパン」と呼ばれた。たびたび冷害に悩まされていた各国絶対君主たちが、この「パン」を国民に推奨したのはよく知られている。フランスでは瘤のような形と芽の毒が嫌われて長く動物の飼料だったが、マリー・アントワネットがジャガイモの花を身につけてアピールし、徐々に常食品として広まってゆく。知られざる彼女の功績の一つだ。
一方、アイルランドでは、人口の半数がジャガイモだけで命をつないでいるありさまだった。なにしろ育てた小麦や家畜の大部分はイギリスへ強制輸出され、彼らの口には入らないのだ(愕然とするが、大飢饉のさなかですらそれは変わらなかった)。ジャガイモは、バターも無ければ煮込みの際の肉も無い者にとって、それほど美味しいものではない。しかも当時の彼らが食べていたジャガイモは、単一栽培をくり返したせいで土壌が疲弊して栄養価まで低くなっていた。とはいえ、何カ月分もの食料が確保されるのは心強いことなので、過度なジャガイモ依存は長く続いた。病気が蔓延するまで。
その病気は北アメリカから入ってきた。ジャガイモ枯れ症ないし青枯病(あおがれびょう)と呼ばれる伝染病で、葉が黄変した時にはすでに土中のジャガイモはおおかた真菌により黒ずみ、腐敗臭を発し、全滅していたのだった。
アイルランドの若い画家ダニエル・マクドナルド(1821~1853)が、自分の目で見た現実を油彩画に残している。タイトルは、『アイルランドの小作農一家、貯蔵品の青枯病を発見』。
この一家は、畑のジャガイモが壊滅したため、皆で備蓄場所へ急ぎ、被せてあった干し草や土をよけてみたのだろう。大家族が二、三カ月は十分暮らせたはずのジャガイモ量だったが、これまた全て腐っていた。もう食べるものは何もない。白髪の家長は天に目をやるが、画面右手から黒雲が――希望などないと言わんばかりに――近づいてくる。彼の息子は悔しそうに両手を揉み、その隣の妻らしき女性は餓死の恐怖と絶望で顔を伏せる。泣きもせずじっとジャガイモを見下ろす少女は、幼いなりにこの状況に耐えている……。
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