一方、角ばったシャコ帽をかぶり、四角い背嚢を背負ったフランス兵らに個性はない。そもそも顔がない。無慈悲な殺人マシーンのように、心をもたないロボットのように、生身の人間に向かって平然と銃弾を撃ち込んでゆく。あり得ないこの至近距離! ここにもゴヤの天才的計算がある(後にピカソやマネが本作の引用作品を描いたが、とてものことにゴヤの迫力には敵わない)。

 当時のスペイン人には、いや、ヨーロッパ中の目に、ナポレオン軍はこのように見えていた。だとしたら、フランス側もまた自分たちをそのように感じはじめ、疲れはじめていたのではないか。終わりは近い。だが正統性をもたない成り上がりの皇帝は、戦争を終わらせるわけにはゆかず、勝ち続けねばならないのだった。

 1812年、ナポレオンは運命の決断を下す。ロシア侵攻だ。北国の冬将軍を避けるため、連合国軍を含む65万の兵を率いて国境を越えたのは6月。先の2回のロシア戦では楽勝だったので、夏には勝てると踏んだようだ。何しろ無敵のナポレオン軍であり、ロシア軍は弱い上に23万しかいないのだから。

 予測は外れる。ロシアの総大将クトゥーゾフは太った老人で、馬に乗ろうとして転げ落ちることもあったほどだが、頭は高速回転し、戦略を間違えなかった(拙著『ロマノフ家 12の物語』参照)。まともに戦えば敗けると知っていたクトゥーゾフは肉を切らせて骨を断つことにしたのだ。敵の進路にある家々を全て焼き払い、いっさい食料を現地調達できないようにしたばかりか、兵站(後方支援部隊)を狙い撃ちした。

 勝手の違う戦にとまどい、飢餓と疲労で気息奄々になりながら、それでもフランス軍はモスクワに入城した。この時点で、兵は50万も減っていた。戦死より病死や衰弱死、逃亡や脱落した者の方が多かったという。

 モスクワは静まり返っていた。交渉相手は誰一人いない。ナポレオンは1カ月待ち、ついに諦めて退却をはじめたのが9月。図ったかのように、例年より早い、しかも例年より厳しいシベリア寒気団が襲った。もちろんロシア軍もここぞとばかりゲリラ的にくり返し襲いかかってきた。フランスへ帰還できたのはわずか3万と言われているので、凄まじい負け方だ。

 ナポレオンのこの惨めな退却を描いた作品は数多いが、フランス人戦争画家ニコラ=トゥサン・シャルレ(1792~1845)の『ロシアからの撤退』を見よう。

ニコラ=トゥサン・シャルレ『ロシアからの撤退』Episode of the Russian Campaign(1836)(写真提供:akg-images/アフロ)
ニコラ=トゥサン・シャルレ『ロシアからの撤退』Episode of the Russian Campaign(1836)(写真提供:akg-images/アフロ)
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 空のあまりの広さが、ロシアの底知れぬ怖ろしさを象徴している。亡霊の群れのように、瀕死の大蛇のように、蛇行するナポレオン軍の隊列。馬はほとんどいない。食料にされたのだろう。モスクワで盗んだ金銀宝石箱がころがるが、そんなものは何の役にも立たない。痩せ細った兵士が次々に倒れ、たちまち氷と雪に包まれる。

 寒さと飢えだけが死の原因ではなかった。末端の兵士たちは弱った体を互いにおしつけあい、少しでも暖をとろうとした。そのせいでチフスや赤痢といった死病が瞬く間に広がった。ロシア人は死者をすぐ埋めたが、それは憐れみからというより、疫病の蔓延を防ぐためだった。

 ナポレオンが歴史に登場してから死ぬまで、彼の起こした戦争における最大の犠牲者はフランス人だった。彼らは自分たちが作りあげた怪物に呑み込まれたのだ。

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