インドの風土病だったコレラがパンデミック化したのは十九世紀前半。以後、二世紀にわたり七回もの大流行を数え、世界中で何千万もの命を奪う。下火となったペストの代わりのような登場である。
コレラ菌は極寒地でも炎暑地でも感染させられるほど強力で、症状も激烈だ。経口感染し、一、二日程度の潜伏期を経て、腹痛なしの下痢として発症。下痢は激しさを増し、嘔吐、脱水、皮膚の乾燥、急激な血圧低下、痙攣、そして死。下痢便は体重の二倍ほどになることも珍しくなかったため、重症者がたちまち皺だらけの老人になったと言われるのもうなずける。治療薬のない時代、罹患すると死亡率が七〇~八〇パーセントという凄まじさだった(現代では二パーセント以下)。
第一次パンデミック(一八一七~一八二四年)はアジアが主戦場で、日本にも長崎経由で上陸した。江戸に達する前に収束したものの、七万人以上の犠牲者が出た。第二次(一八二六~一八三七年)ではヨーロッパに本格上陸し、ドイツの哲学者ヘーゲルやフランスの首相ペリエの命を奪った。
第三次(一八四〇~一八六〇年)中に発表されたコレラ作品、というよりは、コレラと同じほど怖い状況を描いた作品を見よう。ベルギー・ロマン派の画家アントワーヌ・ヴィールツ(一八〇六~一八六五)の『早すぎた埋葬』。実物大の画面だ。
仮死状態から目覚めた男が必死で蓋をこじあけると、屍衣をまとい、棺に寝かされ、地下墓所に閉じ込められていることを知る。驚愕と絶望の眼、叫び声を発しているであろう大きな口……。
蓋の上には「Mort du cholera(=コレラによる死)」と記してある。おそらく衰弱しきって意識を失ったため、医者が死亡と誤判定したのだろう。次々にコレラ患者が運ばれてくるので、ゆっくり診察もしていられない。教会もまた、葬儀が多い上に感染症の死者に時間はかけられず、あっという間に墓所行きとなる。その際もまた丁寧には扱われず、棺は空いている場所に適当に積まれるだけだ。
絵の主人公の頭部側に置かれた棺は、乱暴に落とされたのだろう、側面が壊れている。そばには棺にすら入れてもらえなかった人骨が散乱し、恨めしげな頭蓋骨の上に、ヒキガエルが我が物顔で座る。行き倒れ人だったのかもしれない。縄で縛って下ろし、縄も感染の恐れがあるのでそのまま放置されたようだ。
主人公はどうなる?
彼の棺を蜘蛛が這うが、それはさして問題ではない。問題は、別の棺がデンと上にのっかっていることだ。それを押しやって棺から這い出る体力が、まだ彼に残っているのだろうか。
――生きたまま埋葬される恐怖は、土葬を選んだ文化につきものの恐怖だ。特にパンデミック中はそれが増大する(吸血鬼やゾンビ伝説はそこから生まれたとの説もある)。ヴィールツと同時代人の童話作家アンデルセンはよく旅をしたが、宿泊したホテルのベッド脇のテーブルに「死んでいるように見えるかもしれませんが、まだ死んでいません」というメモを必ず置いていたという。
心配性がアンデルセンだけのものでなかった証拠に、当時の「安全棺」の販売があげられる。息を吹き返したとき棺内でも呼吸できる空気チューブと、外部に知らせるベルを取り付けた棺だ(現代はスマホを入れることもあるようだ)。
一方、日本だが、ペリー艦隊とともに二度目の襲来に見舞われた。安政五年(一八五八年)の「安政コロリ」がそれだ。コロリは「コロッと死ぬ」の意で、「虎狼痢」という凶暴な漢字が当てられたほど人々を震撼させた。前回は食い止めたが、この度はついに江戸の関所まで破られ、市中人口百万のうち死者が十万(三十万説もあり)にのぼった。歌川(安藤)広重もその一人だった。
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