カトリックの総本山ヴァチカンといえば、十五世紀に建造されたシスティーナ礼拝堂。そしてシスティーナ礼拝堂といえば、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564)の天井画だ。

 高さ二十メートル、幅十三メートル、奥行き四十メートルものアーチ型の天井は、およそ一千平方メートル。ミケランジェロは巨大なそのキャンバスを、初期のみ助手を使ったもののあとはほぼ独力で四年かけて埋め尽くした。要所、要所にイエスの祖先や預言者や巫女たちを配置し、中央は九つに分割して「創世記」からの九シーン。「光と闇の分離」に始まり、有名な「アダムの創造」(映画『E.T.』にも引用された、神の指とアダムの指が今にも触れそうな美しい場面)を経て、「ノアの泥酔」までの一連の物語である。

 ラストから二つ目が「大洪水」(=ノアの方舟)のシーン。悪徳の蔓延に神の怒りがくだり、滅亡を免れなくなった人類が描かれる。見てみよう。

ミケランジェロ・ブオナローティ システィーナ礼拝堂天井画(一部)The Deluge1508~1512(提供:ALBUM/アフロ)
ミケランジェロ・ブオナローティ システィーナ礼拝堂天井画(一部)The Deluge1508~1512(提供:ALBUM/アフロ)

 なんとなく大味な印象を受けないだろうか? 

 それも道理、これはフレスコ画だ。フレスコというのは、まず壁面に漆喰で下地を塗り、それが乾ききらぬうちに顔料で描いてゆく技法で、スピードを要求されるばかりか修正もきかない(乾いた漆喰に顔料をのせれば、経年劣化でぽろぽろ剥がれ落ちてしまう)。

 そのためキャンバス画のように色を塗り重ねたりぼかしをいれたりといった微妙な陰影をつけにくく、印刷だと見劣りして感じられるのだ。しかし実物を鑑賞する場所を思い起こしてほしい。マンションなら六階か七階分の吹き抜けの天井に描かれているのだ。見上げるうち首が痛くなるほどの高さには、精巧な細工より大ぶりで色のくっきりしたもののほうが映える。本作はそのような想像力を働かせて見なければならない。

 ――空は分厚い雲海に、地は未曽有の洪水に覆われる。烈風が吹きすさぶ。樹木がしなる。体に巻いた布は帆のように膨らむ。人々はわずかな荷を持ち、逃げまどう。残された陸地はわずかで、それもまもなく水底に沈むだろう。

 人の群れは四つのグループに分けられる。画面左には丘(かつては山頂だった)にたどりついた人々。食料を入れた袋や家財道具を持ち、妻を背負い、水から上がる。左端には高地に強いロバも見える。そのそばで泣く子は、母が死にかけているからだろうか。

 木によじ登ろうとする若者もいる。自分だけ命長らえようと、幼い子どもらを連れた母親や負傷者など顧みもしない醜い人間を象徴、との説もあるが、高いところに上がって近くにもっと陸地がないか探そうとしているだけかもしれない。なぜなら命からがら集まってきたこのグループには、親子の情、夫婦の情を感じさせる行動しか見られないからだ。反骨精神の主ミケランジェロは、神罰がはたして絶対的に正しいのかという疑問を(密かに)投げかけた可能性がある。

 画面右の岩山で天幕を張って寄り添う者らも、神に罰せられて当然の罪人とは思えない。ぐったりした若者を抱きあげて運ぶ男、それを手助けしようと腕を差し伸べる老人と女がいる。右端で四つん這いになって崖下をのぞく赤い服の女(男?)は、どうやら泳いでこちらを目指す者たちを励ましているようだ。死の境にあってなお互いに助け合う人間の崇高さが示される。

 画面中央の激しく揺れるボートに、ようやく『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)のカンダタみたいな男たちが登場している。彼らは必死に乗り込もうとする人間を棒で殴ろうとし、水中へ突き落とそうとしている。他の乗員たちもまた誰ひとり、泳いでくる者を助けようとはしない。不和の小舟は転覆しかけている。

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