ポール・ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』The Execution of Lady Jane Grey(1833)(写真:Bridgeman Images/アフロ)
ポール・ドラローシュ『レディ・ジェーン・グレイの処刑』The Execution of Lady Jane Grey(1833)(写真:Bridgeman Images/アフロ)

 この歴史画は二〇一七年に日本で開催された『怖い絵展』(筆者監修)の顔として展示されたので、記憶されている方もおられよう。

 ヘンリー八世の妹の孫だったジェーンは、王位継承順位が低いにもかかわらず、実父や舅(彼女は同時期に政略結婚させられていた。画中でも左手の薬指に指輪が見える)の画策により、女王の座に据えられた。だが間髪いれずヘンリー八世の娘メアリもまた女王宣言。戦いは後者の勝利に終わり、「九日間の女王」ことジェーンは処刑される。十六歳だった。

 政治闘争に翻弄された若いジェーンの無垢、無実を際立たせる白い衣装。どんな顔かと観る者の想像に委ねる目隠し。同情心あふれる司祭と死刑執行人。悲嘆にくれる女官。何より胸を打つのは、首置台のありかを手探りするジェーンのふっくらした腕と、幼さの残るぎこちない仕草だ。台の下に敷かれた麦藁が血を吸うためのものと知った途端、戦慄が走る。まるでオペラのクライマックスのようだ。

 さて、洪水がどう関わったか?

 本作は長らく個人蔵だったが、所有者がナショナル・ギャラリーに寄贈し、テート美術館にて展示された。テムズ川の畔にある美術館である。先述した一九二八年に起きた氾濫により、『ジェーン』は他の作品とともに行方不明となり、流失したものと見做されてそれ以上捜されることもなく、「完全破損」と正式発表までされる。この世から消えてしまったのだ。

 それから四十五年経った一九七三年、テート美術館に一人の新人が学芸員として採用された。テムズ川氾濫の時にはまだ生まれていなかった若者だ。彼は真の意味での研究者だった。ろくに調べもせずにどうして完全破損と言えるのか、彼はその発表を信じず、どこかにあるはずだという噂の方を信じて、迷路のような広い美術館をくまなく捜し続けた。そしてついに修復室の台の下に、ラベルすら貼られず丸めて山積みされていた夥しい、また汚れ放題のキャンバス群を見つけ、片端から広げていった。その中に『ジェーン』は眠っていたのだ。

 これほど長い月日が経っていながら『ジェーン』は――絵の具の剥落はかなりあったものの――ほぼ無疵だった。さっそく修復され、今度はロンドン・ナショナルギャラリーの壁を飾ったのだが、あまりに鑑賞者が絵の前で立ち止まるので、床が傷んで修理せねばならぬほどだったという。

 この作品にふさわしい、なんとオペラティックな展開か。テムズ川の氾濫、消失、再発見。このエピソードはさらに我々に大切なことを教えてくれている。何であれ、納得しがたいことがあれば、まず前提から疑ってかかれ、ということを。

この記事はシリーズ「中野京子の「災厄の絵画史」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。