その政治手腕によって、後にピョートルと同じ「大帝」を冠されるエカテリーナだが、玉座に就いた経緯(夫を殺して手に入れた)と血筋(ロシア人の血が一滴も入っていないドイツ人)がアキレス腱だったから、ただちにタラカーノヴァを僭称者として逮捕、監禁、そしておそらく拷問にかけた。公式発表によれば、彼女は洪水の二年前に病死したことになっている。

 だが何かにつけて隠蔽する黒い宮廷であってみれば(拙著『ロマノフ家 12の物語』光文社新書参照)、民衆はそんな発表など信じず、空想力を羽ばたかせた。タラカーノヴァは間違いなくピョートル大帝の高貴なる孫娘であり、ほんとうの死因は病死ではなくネヴァ川の洪水にあったと、半ば信じられるようになる。フラヴィツキーはその言い伝えを、かくもドラマティックに表現してみせたのだ。

 セーヌ川は、ロワール川に次いでフランスで二番目に長い大河だ。水源はフランス中東部の丘陵の湧き水で、細い流れが丘を下って平地へ達し、特にパリへ近づいたあたりから水量も増し、ゆったりと、またクネクネと蛇行するようになる。

 平地の川だから氾濫しないかと言えば、そんなことはない。大雨や雪解けや解氷で増水すると水害になる例は、ヨーロッパ各国の平野部でよく見られる。日本の場合は河川の長さが短く勾配も急なので、数時間から一、二日のうちに増水、氾濫が起きるが、盆地以外は水の引くのも早い。ところがセーヌ川のような平地の河川は洪水が到達するまでに一カ月以上かかることもあり、水の引くのも遅くて最悪の場合は数カ月というから、水の腐敗による疫病が蔓延しやすいという別の負の側面もある。

 一方、増水が自分のところへ達するまで時間があるのは利点で、情報さえ得れば氾濫に備え、逃げることもできる。十七世紀半ばのパリのセーヌ川洪水では橋が崩れて死者が百人以上出る惨事となったが、並みの増水ならパリっ子は、ある意味、慣れていた。

 そこでこういう絵画も生まれる。一八七六年のパリ郊外を水浸しにした洪水の景色で、『ポールマルリの洪水と小舟』。描いたのはフランス生まれのイギリス人アルフレッド・シスレー(1839~1899)。印象派の風景画家だ。

アルフレッド・シスレー『ポールマルリの洪水と小舟』La Barque pendant l'inondation, Port-Marly(1876)(写真:Mondadori/アフロ)
アルフレッド・シスレー『ポールマルリの洪水と小舟』La Barque pendant l'inondation, Port-Marly(1876)(写真:Mondadori/アフロ)

 早春の空はあくまで青く、高く、陽気な白いぽんぽん雲もわく。水面は穏やかに陽光を照り返し、影を揺らめかす。小舟の二人の人物も波がないので平気で突っ立っている。ちょっと見には洪水と気づかず、ヴェネチアやアムステルダムに似た運河風景と間違えそうだ。

 だが画面右の木立から、そこが並木道だったことがうかがえる。その先の道路を舟がすべるように進むが、いつもなら馬車が通っていたはずだ。画面左の建物は、一階が居酒屋、二階が宿屋。建物の周囲には樽を縄で縛り、厚板を載せている。内部は浸水して大変なはずだ。

 シスレーがこの光景に魅せられたことは、画面から伝わってくる。購入者もそうだったのだろう。雪が積もると白銀の世界へと一変するように、道路が湖面に化けるのも風景としては魅惑的だ。死者が出ていないなら良し、としたのかもしれない。「セ・ラヴィ(=これが人生)」と言ったかどうかは知らないが、当時は洪水見物に出かけた人がおおぜいいた由。

 最後はテムズ川。

 ロンドンを海とつなぐこの川もまたひんぱんに暴れだし、橋を壊し、人を流してきた。一九二八年の真冬にも突然氾濫したが、それはフランス人歴史画家ポール・ドラローシュ(1797~1856)作『レディ・ジェーン・グレイの処刑』に大きな影響を及ぼした。