ロシアのネヴァ川(全長74km)、フランスのセーヌ川(全長780km)、イギリスのテムズ川(全長346km)――それぞれ十八世紀のペテルブルク、十九世紀のパリ郊外、二十世紀のロンドンに起こった記録的氾濫と、関連する絵画を見てゆこう。

 まずはネヴァ川。

 ロシアの画家コンスタンチン・フラヴィツキー(1830~1866)の代表作にして、切手の図柄にもなった人気作『皇女タラカーノヴァ』が、この川に関係している(後述)。

コンスタンチン・フラヴィツキー『皇女タラカーノヴァ』 Princess Tarakanova(1864)(写真:Alamy/アフロ)
コンスタンチン・フラヴィツキー『皇女タラカーノヴァ』 Princess Tarakanova(1864)(写真:Alamy/アフロ)

 ネヴァ川はラドガ湖を水源とし、お椀状のラインを描いてフィンランド湾へ流れ込む。河口はいくつもの支流に枝分かれした三角州で、オオカミの跋扈する森やじめじめした湿原が拡がるばかりだったが、そんな荒涼たる土地柄もものかは、ピョートル大帝は新都建設に着手した。子供時代に暗殺されかけ、因習に縛られた古都モスクワを嫌った彼の目的は、遷都と海外貿易の拠点作りだった。

 こうして水との戦いが始まる。十年の月日と多大な犠牲(建設労働者が一万人以上事故死したという)をはらって湿地は埋め立てられ、運河が網目状に張りめぐらされ、美しい「北のヴェネチア」ことサンクト・ペテルブルクは誕生した。首都に定められたのは、一七一三年だ。

 だがネヴァ川は飼いならされることを拒んだ。新首都完成のわずか数カ月後に早くも二メートルの洪水となって襲い、その後もくり返し暴れ続けた。ペテルブルクの深刻な水害は、現代まで三〇〇回を超えるという。

 中でも一七七七年、エカテリーナ二世時代に起こった大災厄では、水位三メートル、死者千人以上、多数の木造家屋や船舶、棺までが海に流された。とりわけ悲劇的だったのは、ネヴァ川沿いの刑務所に収監されていた囚人全員(数百人と言われる)、獄中で溺死したことだ。看守らが牢の鍵をかけたまま、逃げてしまったからだ。

 フラヴィツキー作品に目を凝らしてほしい。

 美しいヒロインは、豪華な衣装から高い身分と思われるが、薄暗い牢獄に入れられている。剥き出しの漆喰壁、小さなテーブル上の水差しと固いパン、粗末なベッドの敷布からは藁がはみ出し、なんとドブネズミが這い上がってきている。よく見ればベッド自体が水に浮いている。なぜか?

 画面右の窓に注目。ガラスが破れ、激しい勢いで水が流れ込んできている。ネヴァ川の水だ。おそらく少し前まで彼女は必死に扉を叩き、看守に救けを求めたであろう。返事は無く、閉じ込められたのを知る。ここで死ぬ運命を悟る。それが絶望の表情のわけだ。

 彼女は皇女タラカーノヴァと名乗っていた。先々代のツァーリだった未婚のエリザヴェータ女帝(ピョートル大帝の長女)が、臣下との間に密かにもうけた子が自分だと主張していた。ほんとうならピョートル大帝の孫になる。

 嘘にしても政敵に利用されかねないと、エカテリーナ二世は危機感を抱いた。