いかにも実直そうな田舎医師ジェンナー、不安そうにメスを見つめる少年。質素な身なりのその母は、息子が動かないように上腕をしっかり押さえている。近代的設備も何もない狭い診療室で、最新医学の実験が今行われている。淡々と見えるこの情景は歴史的瞬間であり、接種を決意した医師、接種を受け入れた母子、三人の英雄の姿でもある。

 実はこれは第一段階にすぎなかった。ほんとうの治験は六週間後だ。牛痘に罹って軽い症状で終わったジェームズ君に、今度は真性の天然痘を接種した。もしかすると少年は二度目なのであまり心配していなかったかもしれない。だがジェンナーの緊張はいかばかりだったか。もしこの子が天然痘に罹患し、ルイ十五世のごとき最期を迎えるようなことがあったら……。

 少年は無事だった。ここに人類史上初めてのワクチンが誕生した。そしてこのワクチンは改良を重ね、やがて地球上の天然痘撲滅にまで導く。そんな輝かしい未来を想像だにできない当時の医学界は、ジェンナーが論文を刊行した後もなお無視し続けた。一方、各国で接種が進み、天然痘の大流行に歯止めがかかるにつれ、イギリス議会はこのワクチンの成果を認めてジェンナーに賞金を贈った。一八〇二年のことだ。ジェンナーの努力は十分に報われた。

 牛痘による接種が始まった初期の頃、反対運動はかなり盛んだった。牛の膿を体内に入れると牛になると喧伝されたのだ。すかさずワクチン推進派は、牛はエジプトでもインドでも聖獣であり、牛痘は聖なる液だと反論。そうした大騒ぎを揶揄するのが大好きなのが、皮肉屋イギリス人なので、さっそく風刺画家ジェームズ・ギルレイ(1757~1815)が『牛痘接種のすばらしい効果』という漫画風の版画を制作して人々を大いに笑わせている。

ジェームズ・ギルレイ『牛痘接種のすばらしい効果』The Cow-Pock-or-the Wonderful Effects of the New Inoculation!(1802)(写真:akg-images/アフロ)
ジェームズ・ギルレイ『牛痘接種のすばらしい効果』The Cow-Pock-or-the Wonderful Effects of the New Inoculation!(1802)(写真:akg-images/アフロ)

 ここは下層階級向けの接種病院。壁に掛かった絵は、金の牡牛を崇める信者たちを描いたもの。若い女性が椅子に座って腕にメスで切り込みを入れられているが、血がだらだら流れてずいぶん痛そうだ。医師は無表情。そばにはワクチン液の入った手桶を持つ少年がいる。彼のポケットから、「ワクチンの利点」と書かれた冊子がのぞいている。女性の周りの人々はすでに接種済み。牛痘によって体のどこかが牛化してしまった。大きな二股フォークを持った農民は、お尻と右腕から牛が飛び出す。他にも頬、耳、額、口、鼻から小さな牛が出てきて、悲惨なありさまだ。

 この絵は観る者に種痘接種を促したろうか、それとも抑制しただろうか?

 何にせよ、天然痘は一九八〇年に根絶宣言。現在はワクチン接種も無い。これほどみごとな疫病退治に貢献したジェンナーが、なぜノーベル医学生理学賞を取っていないのかって? 答えは簡単。まだアルフレッド・ノーベルは生まれていなかった。

この記事はシリーズ「中野京子の「災厄の絵画史」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。