一七七四年、六十四歳でいまだ健康そのものの王はいつものように狩猟に出かけ、突然頭痛を訴えて帰城した。翌日には発疹が出始めた。およそ二週間も持ちこたえたのは、生来の頑健さゆえであろう。シュテファン・ツヴァイクは『マリー・アントワネット』(角川文庫、拙訳)で死の床の様子をこう書いている。

 「一面に発疹の出た王の身体は、一瞬も意識は失われないのに、不気味な崩壊へと移ってゆく」「この後もぞっとすることは続く。人間が死ぬというより、黒ずみ膨張した腐肉が崩れてゆくのだ。なのにルイ十五世の肉体は、ブルボンの祖先の全部の力が集まったかのように、絶え間ない破壊に巨人のごとく抵抗する。誰にとっても恐ろしい数日だ。召使たちは凄まじい臭気に気を失い、(中略)侍医たちはとうに諦めて手を引き、宮廷は身の毛もよだつこの悲劇が早く終わらないかとじりじりして待つ」。

 王の死の様子は、外交官という名のスパイたちによってすぐさま各国へ伝えられた。プロイセンのフリードリヒ大王は人痘法技術を国中の医者に学ばせて種痘を広めたし、アメリカのワシントンは全兵士に種痘を命じた。為政者たちは我が事となってやっと予防に力を入れ始めたのだ。

 さらに四半世紀たった一七九八年、イギリスのエドワード・ジェンナーによる『牛痘の原因と効果についての研究』が刊行された。先に王立協会に送って無視されたため、やむなく自分で出版した論文である。無視された理由は、今も昔も変わらぬエリート主義と言うべきか、ジェンナーが一介の田舎の開業医だったため軽んじられたようだ。

 今や「近代免疫学の父」として知らぬ者のないジェンナーなので、牛痘法誕生のいきさつも人口に膾炙している。ざっとこういう経緯だ――田舎で働いているので、彼の患者には搾乳婦もいた。牛と接触する彼女らは牛痘に罹ることがよくあった。この病気は天然痘とよく似た丘疹や膿疱を呈するものの症状は軽く、病後にあばたが残ることもない。

 ジェンナーが注目したのはその先だ。一度牛痘に罹ると天然痘にならない、という言い伝えが古くから広く流布していたのだ。そして実際そのとおりに思えた。こうして彼は重い副作用のある人痘法より、牛を使った牛痘法を試してみるべきと決意する。

 一七九六年、ジェンナーは「自分の息子」に牛痘の膿疱を接種した……と、筆者は少年少女向けの伝記で読んだ記憶があるが、実際には「自分の使用人の息子」だった(華岡青洲が自分の母と妻を麻酔薬の実験台にしたのとはだいぶ違う)。八歳のその少年ジェームズ君への予防接種の様子を、イギリスの歴史画家アーネスト・ボード(1877~1934)が想像力を駆使して描いたのが、『少年に予防接種するジェンナー』。

アーネスト・ボード『少年に予防接種するジェンナー』Dr Jenner performing his first vaccination on James Phipps(1910)(写真:Alamy/アフロ)
アーネスト・ボード『少年に予防接種するジェンナー』Dr Jenner performing his first vaccination on James Phipps(1910)(写真:Alamy/アフロ)