これ以外にもルーベンスは何点か、戦争や平和の寓意画を描いている。中でも有名なのは、本作から八年後、今度はイタリアのメディチ家から依頼された『戦争の惨禍』だ。オランダ独立戦争の再燃に心を痛めての制作。

ピーテル・パウル・ルーベンス『戦争の惨禍』(1638)The Result of War (写真:akg-images/アフロ)
ピーテル・パウル・ルーベンス『戦争の惨禍』(1638)The Result of War (写真:akg-images/アフロ)
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 画面左で双面の神ヤヌスの門が開き(平和時には閉じられている)、黒衣の女性(ヨーロッパの擬人像)が絶望している。愛の女神ヴィーナスがキューピッドといっしょに必死にマルスを止めようとするが、軍神は復讐の女神に引っ張られ、平和時の豊かさや芸術を踏みつけてぐんぐん進んでゆく。

 ルーベンスが貢献した平和は十年ももたなかったのだ。病を得ていた彼は(この二年後に病死)、ヨーロッパ中が再び戦火にまみれる暗い未来を憂慮した。

 平和とは、戦争と戦争の合間に恩寵のごとく与えられるものにすぎないのだろうか……。

 ルーベンス没後二世紀を経て制作されたのが、ロシアでもっとも著名な戦争画家であり、日本とも少なからぬ因縁(後述)のあるヴァシーリー・ヴァシリエヴィチ・ヴェレシチャーギン(1842~1904)の『戦争礼賛』だ。

ヴァシーリー・ヴァシリエヴィチ・ヴェレシチャーギン『戦争礼賛』(1871)The Apotheosis of War(写真:ALBUM/アフロ)
ヴァシーリー・ヴァシリエヴィチ・ヴェレシチャーギン『戦争礼賛』(1871)The Apotheosis of War(写真:ALBUM/アフロ)
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 ロマノフ王朝下の帝政ロシアに生まれたヴェレシチャーギンは、ペテルブルク海軍士官学校を出て軍人となるが、絵画への思い止みがたく、帝国芸術院に再入学。次いでパリに留学し、ロシアへもどった後も世界各地を旅して異国の風俗画をものしつつ、従軍画家としても活動した。彼が常々主張していたのは、戦争を描くのなら双眼鏡で覗くだけではだめだ、兵士と同じように飢えや病気や負傷も経験せねばならない、ということだった(その言葉どおり、露土戦争では重傷を負っている)。

 またこんなエピソードも残されている。戦時特派員の目撃談だが、バルカン半島の激戦地で弾が飛び交い、撃たれて倒れる兵士がおおぜいいる中、ヴェレシチャーギンは戦場全体を見渡せる場所で小さな折りたたみ椅子に座ってスケッチを続けていたという。海軍学校での訓練や実戦体験があったにせよ、彼には真の肝の太さが備わっていたのだろう。

 戦場をテーマにした数多の作品のうち、「トルキスタン戦争」シリーズが世界的に知られているのは、ロンドンの展覧会に出品されて各国の評論家の目に触れたことにもよる。シリーズ中の一点が『戦争礼賛』で、ヴェレシチャーギンの代表作でもある。当時も斬新さで評判を呼んだが、百五十年を経てなお古びていない。現代の画家が描いたアフガン戦争のアレゴリー、と言われてもなんら違和感がないのではないか。時空を超えた普遍性をもつゆえだ。

 この作品の額縁には、「過去、現在、未来の全ての征服者に捧げる」という画家自身の銘文が記されている。その痛烈な皮肉から明らかなように、彼は――たとえロシア兵の英雄的行為を何度も描いてはいても――反戦主義者だった。「画家として全身全霊で戦争を非難する」と語ってもいる。ではなぜ戦争画を描くのかと問われると、「戦争への怒りにかられて」と答えている。

 『戦争礼賛』の舞台は、ロシアが侵攻して焼野原になったトルキスタンの戦場だ。遠くに低い連山、ところどころ崩壊した市壁や家屋、倒れかけた塔などが見える。大地には草一本、木の葉一枚残っていない。青い空には不吉な黒いカラスばかりが飛ぶ。

 「征服者」への「捧げ」物は、画面中央に山と積まれている。よく見るとこれら頭蓋骨はどれも存外、個性的で驚く。歯を食いしばっていたり、笑っているようだったり、頭頂部に刀の切り傷があったり、逆さまになってこちらを見ていたりする。中央やや下の頭蓋骨は大きな口をあけて、まるで恐怖の悲鳴を上げているかのようだ。

 これほど完全に白骨化しているのに、まだわずかでも腐肉が残っているらしく、カラスが群がって嘴でつつくのをやめない。

 ヴェレシチャーギンはその後も旅と従軍を続けた。一九〇三年には日本へも足を延ばし、親日家になったと言われる。日本の風俗画シリーズを描く予定もあったようだが、翌一九〇四年に日露戦争が勃発。彼は軍港のある旅順へ行き、そこの艦隊司令官マカロフ提督に誘われて、ペトロパヴロフスク号に乗り込んだ。

 しかし数日後、巨大戦艦は日本軍の水雷に接触、船内の火薬庫に引火、爆発して、あっという間に五〇〇人の乗組員もろとも海に沈んでしまった(生き残った兵はわずかながらいたが)。

 噂によれば、マカロフ提督の幕僚会議のスケッチが波間に漂っていたのが拾われたという。ヴェレシチャーギン最後の作品と言われる。

 そして興味深いことに、彼の訃報を知った中里介山(『大菩薩峠』の作者)が追悼文を書いている。敵国人としてより、同じ芸術家として、共鳴するところがあったのだろう、曰く、「戦争の悲惨、愚劣を教えんとして、而して戦争の犠牲となる。芸術家としての彼は其天職に殉じたる絶高の人格なり」。

この記事はシリーズ「中野京子の「災厄の絵画史」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。