(提供:三陸鉄道)
(提供:三陸鉄道)

(第1回「津波で駅が消えた! 停電を救ったディーゼル車両」はこちら

2011年3月11日の午後2時46分。大地震が日本を襲った。岩手県の太平洋沿岸を縦走する三陸鉄道も大きな揺れと津波の被害に見舞われた。混乱のさなかにあって、望月正彦社長(当時)は「被災後1週間で運行再開」を決断する。決め手は、線路の上に降り積もった雪の上に残された、沿線住民の足跡だった。

 その準備は迅速だった。がれき撤去のため、宮古市長を口説いて自衛隊の出動を要請。無料運転を提供する資金を獲得すべく、岩手県知事の了承を取った。

(聞き手:森 永輔)

大地震の直後は、乗員乗客の安全確保に力を尽くされました。その後に続いたのが復旧作業ですね。

望月正彦・三陸鉄道前社長(以下、望月): 3月13日に、当時の北リアス線*の宮古駅から普代駅までの状況を見にでかけました。この日の朝の7時半に、警報が注意報に変わったからです。それまでは、現地入りがかないませんでした。

*:北端の久慈駅と南端の宮古駅を結ぶ71.0km

なぜ、その区間を選んだのですか。

<span class="fontBold">望月正彦(もちづき・まさひこ)</span><br />三陸鉄道・前社長<br />1952年生まれ。1974年に山形大学を卒業し、岩手県庁に入庁。久慈市助役や岩手県盛岡地方振興局長を歴任した後、同庁を退任。2010年6月~2016年6月まで三陸鉄道で社長を務めた (写真:赤間幸子)
望月正彦(もちづき・まさひこ)
三陸鉄道・前社長
1952年生まれ。1974年に山形大学を卒業し、岩手県庁に入庁。久慈市助役や岩手県盛岡地方振興局長を歴任した後、同庁を退任。2010年6月~2016年6月まで三陸鉄道で社長を務めた (写真:赤間幸子)

望月:他の区間については、現場からさまざまな情報がもたらされていました。北リアス線については、北端の久慈駅から、南に下って2つ目の陸中野田駅までは線路に異常はないとのことでした。他方、陸中野田から南は線路が流されている箇所がある、と報告されていました。

 そして、宮古駅~普代駅の間については状況が不明だったのです。

宮古駅から普代駅まではどれくらいの距離があるのですか。

望月:ふつうに行けば70kmくらいの距離です。しかし、幹線である国道45号線が津波で通行止めになってしまったので、裏道を使わざるを得ませんでした。なので、もっと長い距離を移動したかもしれません。

 社長に就任してすぐ現場視察をしたとお話ししました。このときに、裏道があることは確認しておいたのです。
(関連記事「津波で駅が消えた! 停電を救ったディーゼル車両」)

 会社の車を運転して、一駅一駅、確認していきました。線路を全て確認することはできませんでしたが、各駅の前後500mほどは見て回りました。

続きを読む 2/6 雪の上の足跡が示した、三陸鉄道の存在意義

この記事は会員登録で続きをご覧いただけます

残り1684文字 / 全文4887文字

日経ビジネス電子版有料会員になると…

人気コラムなどすべてのコンテンツが読み放題

オリジナル動画が見放題、ウェビナー参加し放題

日経ビジネス最新号、10年分のバックナンバーが読み放題

この記事はシリーズ「三陸鉄道始末記~3.11大地震から全線再開まで」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。