2011年3月11日。大地震と津波の後、島越(しまのこし)駅が姿を消した(提供:三陸鉄道)
2011年3月11日の午後2時46分。未曽有の大地震が東日本を襲った。岩手県の太平洋沿岸を縦走する三陸鉄道も大きな揺れと津波の被害に見舞われた。北リアス線の島越(しまのこし)駅は、駅舎ごと波に持っていかれた。
全線の復旧にかかる費用は推定で約110億円。同社の営業収益(当時)の25年分を上回る。望月正彦社長(当時)は廃業まで考えたという。しかし、考えに考えて出した結論は「運行再開」。それも、「被災後1週間で運行再開」「3年で全線再開」という驚異的なスピードの計画を立て、実現した。三陸鉄道はいかに奮闘したのか。望月氏の思考と行動の軌跡を追う。
(聞き手:森 永輔)
2011年3月11日の午後2時46分。未曽有の大地震が三陸鉄道を襲いました。望月さんは2010年の6月に社長に就任されてからわずか9カ月。会社の全容をまだ把握できていない状況で、被災されたのではないですか。大変な思いをされたと想像します。
望月正彦・三陸鉄道前社長(以下、望月):幸い、そんなことはありませんでした。振興局長を最後に岩手県庁を辞めて、三陸鉄道の社長に就任。その後2カ月ほどかけて、従業員全員と面談しました。100人くらいしかいない会社ですから、面談は大変なことではありません。
望月正彦(もちづき・まさひこ)
三陸鉄道・前社長
1952年生まれ。1974年に山形大学を卒業し、岩手県庁に入庁。久慈市助役や岩手県盛岡地方振興局長を歴任した後、同庁を退任。2010年6月~2016年6月まで三陸鉄道で社長を務めた (写真:赤間幸子)
面談と並行して、路線の全てを車と徒歩で確認して回りました。線路は傷んでいないか、土砂崩れや津波といった災害の危険が高い場所はどこか、など三陸鉄道の実態を知るためです。あとは乗降客の状況ですね。高校生はどこからどこまで乗る人が多いのか。おじいちゃん、おばあちゃんはどういうときに三陸鉄道を使っているのか。
三陸鉄道の概要。2011年3月当時(提供:三陸鉄道)
私には土地勘がありました。2003年から3年間、久慈市で助役を務めたことがあるので。今でいう副市長です。久慈駅は、当時の三陸鉄道北リアス線*の北の起点に当たります。
*:北端の久慈駅と南端の宮古駅を結ぶ71.0km
リスクマネジメントは、就任する前から重視していました。久慈市の助役として、自分が市長になったつもりで当事者意識をもって行政実務に臨んだことが幸いしました。当時の久慈市長は前の県議会議長で、政治家ではありますが、行政マンではなかったからです。
同市は1983年に「久慈の大火」を経験しています。集落がいくつも火に飲み込まれる大火災でした。これについて学んだことがリスクマネジメントについて考える契機となりました。助役として、災害時に優先してつながる携帯電話の導入を進め、防災関係者や市の幹部、市長などに配布しました。
実は三陸鉄道でも、社長に就任してすぐの2010年8月、災害優先携帯電話を14台導入して備えを堅くしていました。おかげで大地震のとき、こちらからかける通話はほぼ100%つながりました。社内のやりとりはもちろん、県庁や国土交通省とも滞りなく連絡が取れたので、情報を収集したり指示を出したりするのに大いに役立ちました。
想定にない津波が宮古駅に迫る
地震が起きた瞬間、望月さんはどこにいたのですか。
望月:宮古駅の2階にある、三陸鉄道本社の事務室にいました。宮古駅は北リアス線の南端の駅です。
大きな地震に遭遇されて、まず何をしたのですか。
望月:金庫を押さえました。揺れで、金庫が動き出しそうだったのです。一緒にいた総務部長はお神酒を押さえにいきました。
揺れが収まって最初にしたのは、背広を脱ぎ作業服に着替えることです。「これはやばい。背広ではやっていられない」と感じたので。
避難はしなかったのですか。
望月:しませんでした。宮古駅周辺は、津波の浸水想定地域になっていなかったからです。
なので、地震直後は事務室にいて、先ほどお話しした災害優先携帯電話を使って、現場の被害状況について報告を受けていました。運行中の車両が、北リアス線と南リアス線*でそれぞれ1両ずつありましたから。どこで止まったのか、乗客の安否などを確認する必要がありました。
*:北端の釜石駅と南端の盛駅を結ぶ36.6km
そうこうして1時間ほどたつと、宮古駅の外が騒がしくなってきたのです。「何だ」と思って窓から外を見たら、津波が迫っていました。
「これはやばい」と気づいて、宮古駅のすぐ近くにある「出会い橋」という陸橋に慌てて避難しました。その上に2時間ぐらいいたかな。
3月11日。岩手県の早春の午後です。寒かったでしょうね。
望月:ええ、寒かったです。小雪が舞っていました。
午後6時ごろ、辺りが暗くなり、寒さもこたえてきたので、いったん本社に戻ることにしました。幸い、水が宮古駅まで到達することはなく、100mほど海寄りにあるロータリーのところで止まりました。それでも、300m先では車が重なっていたり、漁船が流されたりしていました。
待っていたのは停電です。停電してしまうと、真っ暗で何もできません。ストーブもファンヒーターもつきませんでした。もちろんテレビも、パソコンも使えない。
停電を救ったディーゼル車両対策本部
そのときに気づいたのが、宮古駅のホームに止まっていた車両の存在です。宮古駅を午後3時7分に発車して久慈駅に向かう車両が出発できないまま止まっていたのです。三陸鉄道が運行する車両は電車ではなくディーゼルカー。エンジンをかければ、明かりがつくし暖房も入る。「これいいね」ということで、車両内に対策本部を設置しました。
3月12日。列車内対策本部の様子(提供:三陸鉄道)
その後、一般の社員で家に帰れる者は帰し、幹部7~8人は車両に泊まり込んで対応に当たることにしました。
車両内に設置した対策本部にはどんなものを持ち込んだのですか。
望月:まずホワイトボード、それからノート。
ホワイトボードはどのように利用したのですか。
望月:重要な情報を全部書き出しました。
「○時○分に、乗客を救助した」とか、「□時□分に社員の無事を確認した」とかです。
3月13日。ホワイトボードと震災記録ノートが力を発揮した(提供:三陸鉄道)
乗客乗員の安否確認については、次のようなエピソードがありました。大地震から2日ほどたった日、新聞が「三陸鉄道の車両が行方不明」と報じたのです。岩手県警察署の発表を基にしたものでした。
南リアス線を走っていた車両が、鍬台(くわだい)トンネルを通過中に地震に遭遇し、トンネル内で停止してしまいましたね。
望月:はい、その車両のことです。私どもは3月11日の午後7時半の時点で、運転士が乗客を連れて脱出したことを把握していました。ホワイトボードにもそう記録したわけです。県警も混乱していたのだと思います。
全ての行動を分単位でノートに記録
このノートがすごい威力を発揮したと伺っています。
望月:そうなのです。
起こることの全てを分単位で記録するよう指示しました。いつ、どういう指示を出したか。いつ、誰からどういう報告が上がってきたか。協議して何を決めたか。その全てをです。
人間の記憶くらい当てにならないものはありません。加えて、非常事態です。「言った」「言わない」とか、「聞いた」「聞いてない」という話が必ず出てきます。しかし、この分単位の記録があれば、後から全て確認できます。これは、本当にやってよかったです。記録するよう指示をしたのは思いつきだったのですが。
ディーゼル車両では電気が使えたのですよね。パソコンは使えなかったのですか。
望月:使えませんでした。照明はつきます。しかし、コンセントは付いていません。三陸鉄道が運行する車両の中にはコンセントを配備しているものもありましたが、宮古駅に止まっていた車両にはあいにく付いていませんでした。
なので、デジタル機器は使えず、作業は全て「マニュアル」で行いました。携帯電話だけは、自動車のエンジンをかけてシガーソケットから充電しましたが。
でも、デジタル機器に頼ることなく作業したのは、逆にいちばん確実だったかもしれません。車両の燃料はいつまでももつものではありません。加えて、記録を一元管理することになったので、コミュニケーションの食い違いを防ぐことができました。
車両内に設置した対策本部ではどのように過ごされたのですか。
望月:幹部7~8人が交代しつつ、24時間体勢で当たりました。
8時間ずつ交代したのですか。
望月:いえ、夜は車両の中でごろ寝し、起きたら対策を続けるという状態でした。私は単身赴任で、会社が借り上げたアパートに住んでいたので、家族の元に帰ることはできません。それに停電していたので、アパートに帰っても何もできることはなかったと思います。
車両の中は暖房が利いているとはいえ、3月の東北ですから寒かったですね。気温はたぶんマイナス1度くらいだったと思います。新聞紙を体に巻いて寝ました。
風邪を引きませんでしたか。
望月:幸い、大丈夫でした。非常事態に臨んで気が張っていたのだと思います。
(次回「
被災後1週間で運行を再開する~決断を促した雪の上の足跡
」に続く)
この記事はシリーズ「三陸鉄道始末記~3.11大地震から全線再開まで」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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