
2011年3月11日の午後2時46分。大地震が日本を襲った。
岩手県の太平洋沿岸を縦走する三陸鉄道も大きな揺れと津波の被害に見舞われた。北リアス線の島越(しまのこし)駅は、駅舎ごと波に持っていかれた。全線の復旧にかかる費用は約110億円。当時の同社の営業収益の25年分を上回る。望月正彦社長(当時)は廃業まで考えたという。
しかし、同氏は「被災後1週間で運行再開」という驚異的なスピードの復旧計画を立て、実現した。その決断を促したのは、線路の上に降り積もった雪の上に残された、沿線住民の足跡だった。
運行再開の後、次なる目標である「3年で全線運行再開」に取り組んだ。筆頭株主である県は当初「6年」を想定した難事業だ。「3年」は、復旧にかける時間としては短いが、本来の収益を失う期間としては非常に長い。三陸鉄道はこの間、津波に流された駅のレールを販売したり、運転士を他の鉄道会社に出向させたりするなどして、収益拡大とコスト削減に努めた。
こうしたハイスピードの復旧計画を立案・実現できたのはなぜか。望月氏は震災後の2日間、「三陸鉄道が本当に必要な存在なのか」と考え続けたという。この思考の先にその答えがある。同氏が考える「迅速」な対応と「拙速」な対応の違いはどこにあるのか。
同氏へのインタビューで、その考えの軌跡を追う。
(聞き手:森 永輔)